【風、薫る】ナポレオン3世を驚かせた稀代の商人・清水卯三郎 パリ万博で水茶屋を再現し、芸者が話題に
- 2026/07/31
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彼は幕末の民間商人でありながら、フランスのパリ万博に出展し、日本文化を世界に紹介した先駆者でした。しかも、その展示はナポレオン3世の目に留まり、称賛を受けたといいます。なぜ一介の商人が、世界の舞台で日本を代表する存在となり得たのでしょうか。
この記事では、NHK朝ドラ「風、薫る」に登場する清水卯三郎の人物像と現代にも通じる先見性を探っていきます。
清水卯三郎の生い立ちと勉強嫌いだった少年時代
清水卯三郎は文政12年3月4日(1829年4月7日)、武蔵国埼玉郡羽生村(現在の埼玉県羽生市)に生まれました。通称は卯三郎、諱は直、字は子礼、号は蕪軒です。清水家の先祖は小田原北条氏の家臣でしたが、主家の滅亡後に羽生へ移り住み、代々酒造業を営んで富を築きました。三代目以降は名主も務め、九代目の祖父・誓信、十代目の父・弥右衛門誓一はともに慈善家として知られています。卯三郎は、父祖の善行を誇りにしていたと伝えられています。
母・お貞は大里郡甲山村(現在の熊谷市冑山)の豪農・根岸友山の妹で、誓一との間に五男三女をもうけました。卯三郎はその長男です。母は後妻で、先妻の姉の子を含め十人の子どもを育てましたが、卯三郎が21歳のときに腸チフスで亡くなりました。
卯三郎は7歳で手習いを始めたものの、いたずら好きで勉強嫌いの少年だったといいます。11歳で伯父の根岸友山に預けられ、その翌年には忍藩校の学頭・芳川波山の塾に入り、その後もあちこちの家に預けられましたが、長続きしませんでした。
勉強嫌いが一転、オランダ語と英語を習得
卯三郎に転機が訪れたのは17歳のとき。森玉岡の門下に入り漢学を学び始めてから、急に勉学に励むようになりました。その後は伯父・根岸友山の家に寄宿し、訪れる学者や遊学の学士から教えを受ける一方、根岸家の蔵書を読みあさりました。学びの対象は漢学だけでなく、円理学(数学)、薬学、舎密(化学)、楽焼にまで広がっています。やがて西洋への関心が高まり、嘉永2年(1849)の夏には下総佐倉を訪れ、佐藤泰然(さとう たいぜん)から蘭学の手ほどきを受けました。続いて蘭学の大家・箕作阮甫(みつくり げんぽ)に入門し、オランダ語を習得します。卯三郎は短期間で専門書を読めるほどの力を身につけ、代講の教師から次のように称賛されたと伝えられています。
安政4年(1857)には長崎海軍伝習所の第三期伝習生に志願して長崎へ向かいますが、「大名の家来でも入所が難しいのに、士分でない者は認められない」と断られてしまいました。それでも伝習所で勝麟太郎(海舟)と親しくなり、その後も交流が続きます。
安政6年(1859)2月、卯三郎は親類が横浜で開いた外国人相手の大豆商「田辺屋」を手伝うために横浜を訪れますが、そこでオランダ語がまったく通じず、英語の必要性を痛感します。通詞・立石得十郎から英語を学び、さらに得十郎の紹介でアメリカ公使ハリスの書記官・ポートマンに日本語を教える代わりに英語を習いました。語学の才があった卯三郎はすぐに英語を習得し、万延元年(1860)には商人向け英会話書『ゑんぎり志ことば』を刊行しています。
その英語力を活かし、文久3年(1863)の薩英戦争では英国側通訳として英国軍艦に同乗しました。英国人から通訳を頼まれた知人が怖気づいてしまい、お鉢が卯三郎に回ってきたためです。肝の据わった卯三郎は快く引き受け、役目を果たしました。さらに英国艦船に拘束されていた薩摩藩士・五代才助(友厚)と松木弘安(後の寺島宗則)を保護し、縁戚で豪農の吉田家の離れに匿ったという逸話も残されています。
借金しまくり民間人でただ一人パリ万博へ参加する
慶応元年、幕府はパリ万国博覧会への出展を決め、全国の諸藩や商人にも参加を呼びかけます。しかし、この呼びかけに応じた商人は卯三郎ただ一人でした。卯三郎は勝海舟や五代友厚など海外渡航経験者から欧米の文明を聞くたびに、外国を見たいと願っていたのでした。幕府が万博に参加する話を聞いた卯三郎は心を動かされ、慶応2年(1866)2月、博覧会出品の願書を幕府に提出します。「外国人を驚かせ、お国への恩に報いたい」と願書に記した強い志が認められ、博覧会担当の勘定奉行・小栗上野介(小栗忠順)はこれを許可しました。
卯三郎は幕府から一万五千両を借り、さらに自ら資金を集めて刀剣、陣羽織、酒、茶、化粧道具、鏡、人形、屏風など多種多様な品を買い集めました。出品物は157箱、総額は4万2千522両にのぼり、幕府と同等の規模でした。しかし、莫大な費用を投じたため、自身の旅費や家族の生活費が不足する事態となり、外国奉行支配組頭・田辺太一や勝海舟から借金をすることになります。
卯三郎は単なる商人の枠を超え、これまで築いた人脈を活かしながら幕府中枢とも信頼関係を築き、民間人としてただ一人、パリ万博への挑戦に踏み出したのです。
パリ万国博覧会で水茶屋を出展し芸者が話題になる
パリ万国博覧会は慶応3年(1867)、パリのシャン・ド・マルス広場で開催。42か国が参加し、来場者は約680万人にのぼる大規模な国際博覧会でした。欧米各国は最新の産業技術や機械、医療器具などを競って展示し、日本は陶器、漆器、蒔絵、浮世絵といった高度な伝統工芸を出展して欧州の人々を魅了しました。特に伊万里焼や浮世絵はルノワール、モネ、ゴッホらに強い影響を与え、後のジャポニスムの潮流を生み出しています。
卯三郎が集めた出品物は、慶応2年(1866)12月に幕府の先発隊5名とともに出航しており、卯三郎の先発隊7名も同じ船に乗っていました。その中には柳橋の芸者の三名(さと、すみ、かね)も含まれており、フランスを訪れた最初の日本人女性である彼女たちはパリで大評判となります。
翌年1月には、卯三郎と弟の季六、出品物の収集に関わった謙吉の三名が、徳川昭武の使節団とともにパリへ向かいました。この使節団には渋沢栄一も同行していました。
卯三郎は旅先から伯父・根岸友山に手紙を送り、初めて乗った蒸気車の様子やパリ到着の報告、博覧会場の設営に機械が使われていること、造船場に軍艦が並ぶ光景に驚いたことなどを記しています。文明国家・フランスを目の当たりにした卯三郎は、日本との大きな国力差を痛感したことでしょう。
卯三郎が出展した水茶屋は、日本文化をそのまま欧州へ移植した大胆な試みでした。檜材を日本から運び、現地で数寄屋造りの建物を組み立て、さらに柳橋の芸者三名を給仕として配置し、お茶や酒を振る舞いました。体験型の展示という発想は、当時の日本では万博の実態を知る手段がほとんどなかったことを考えると驚異的です。卯三郎は欧米人が「日本の日常」そのものに強い興味を示すと見抜き、単なる名産品の陳列ではなく、生活文化を体験できる空間を作り上げました。
水茶屋は連日大盛況で、特にさと、すみ、かねの三名の芸者は来場者の注目を集めました。振袖姿や日本髪、キセルを扱う仕草、艶やかな立ち居振る舞いは、数寄屋造りの建物と相まって強烈な異国情緒を放っていました。彼女たちを一目見ようと縁先に人々が押し寄せ、芸者の衣装を買いたいと申し出る少女まで現れたほどで、卯三郎の演出は「日本の魅力」を最大限に引き出すものでした。
この水茶屋は日本の評価を高めただけでなく、後に欧州を席巻するジャポニスムの重要な起点にもなりました。作家メリメが芸者の容姿を絶賛する手紙を残していることからも、その影響力の大きさがうかがえます。卯三郎の成功は、外国人の視点を理解し、文化を商品として提示する先見性と、体験型展示という柔軟な発想に支えられていました。
最終的に卯三郎はナポレオン3世から銀メダルを授与され、メダルには「OUSABOURO」と刻まれました。これは彼の企画力と商才が国際的に認められた証といえます。
明治より未来を生きた人
パリ万国博覧会の閉会後、卯三郎は大西洋を横断してアメリカへ渡り、明治元年(1868)5月に1年4か月ぶりの帰国を果たしました。帰国後は浅草に「瑞穂屋」を開店し、西洋書籍や薬種類の輸入業を始めます。翌年には日本橋へ移転し、輸入業に加えて出版事業にも乗り出しました。欧米で見た市民生活を日本にも広めるため、卯三郎はフランスから活版・石版印刷器械、陶器着色法、鉄物標本、西洋花火など多岐にわたる品を持ち帰っています。これらは日本初のものが多く、各分野の発展に大きく寄与しました。
卯三郎が持ち帰った印刷機は、日本の石版印刷の始まりとなりました。陶器着色では酸化コバルトなどが有田焼の技術革新をもたらしています。西洋花火を店先で試した際には近隣が火事と騒ぎ、警察沙汰になる一幕もありましたが、常に新しい知識と技術に挑戦する卯三郎の姿勢がうかがえます。
出版業では、自ら輸入した印刷機を使って『六合新聞(りくごうしんぶん)』を刊行し、明治7年(1874)にはイギリスの化学入門書を翻訳した『ものわりのはしご』を出版しました。ひらがなの普及にも力を注ぎ、機関誌『かなのみちびき』を創刊しています。
貿易商としては、日本初となる歯科治療器材の輸入販売に携わり、欧米各国の歯科雑誌から治療技術や薬剤を抄訳した『歯科全書』を出版しました。
さらに明治5年(1872)2月、卯三郎は日本で万国博覧会を開催するよう明治政府に建白しています。建白書は12ページに及び、来客数の予測や詳細な予算まで示されていました。「西洋技術を実物展示で広め、これからは自国で製品を作れる国にならなければならない」という先見性に満ちた提言は政府に認められ、明治10年(1877)に『第一回内国勧業博覧会』が開催されました。
おわりに
明治29年(1896)、68歳になった卯三郎は引退し、すべての事業を息子の連郎(むらじろう)へ譲りました。しかし、連郎が弁理士となったため、瑞穂屋は明治36年(1903)に閉店しています。その後、明治43年(1910)1月20日、清水卯三郎は82歳でその生涯を終えました。連郎は父・清水卯三郎について、
「いったい私の父は非常な西洋好きで、その上にすこぶる多趣味多才な人で、私の口から言うのも変だが、頭脳がいつも時代より一歩も二歩も先に進んでいた人」(『清水卯三郎を語る』)
だと評しています。
各界の指導者たちと親交を深め、「国を良くしたい」という熱い想いを抱き、卓越した先見性と行動力で時代の先駆者として輝かしい功績を上げた清水卯三郎。歴史の表舞台に立つことはなかったものの、日本の未来を先取りした稀代の商人であったと言えます。




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