筒井順慶|「元の木阿弥」のルーツ?松永久秀と10年戦った名将の波乱万丈人生

  • 2026/07/10
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 幼少期に家督を相続し、少年期から十数年間にわたり宿敵と死闘を繰り広げ、最期は病をおして戦場へ向かう――。筒井順慶の生涯は、戦国乱世を体現するかのような波乱万丈の連続でした。しかし、順慶の名は意外な誤解とともに、後世へと広く伝わることになります。

 本能寺の変の後、「日和見」の代名詞となった「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」。あの時、順慶はいったい何を決断したのでしょうか。

わずか2歳で筒井家の家督を相続

 筒井順慶は天文18年(1549)、大和国(現在の奈良県)の大名であった筒井順昭(つついじゅんしょう)の子として誕生しました。幼名を藤勝丸といいます。

 当時、大和国では興福寺が守護の役割を果たしていましたが、「大和四家」と呼ばれる筒井・越智・箸尾・十市の4氏が台頭。その中から順慶の父・順昭が勢力を拡大し、大和一国をほぼ手中に収めるに至りました。

順慶の父・筒井順昭の肖像画(圓證寺蔵、パブリックドメイン。)
順慶の父・筒井順昭の肖像画(圓證寺蔵、パブリックドメイン。)

 筒井家は代々、興福寺一条院方の衆徒(僧兵)であり、その中でも「官符衆徒(かんぷしゅと)」という、棟梁として衆徒を取り締まる特権的な立場にありました。僧侶でありながら武士でもあるという特殊な身分ですが、戦乱が激化する中では、興福寺から独立した「有力国衆」としての性格を強めていきます。順慶はこのような背景のもと、武将としての宿命を背負って生きることになります。

 順慶の波乱の人生は、父・順昭の急逝によって幕を開けます。

 病を理由に比叡山へ隠居していた順昭は、順慶が2歳となった翌年に病没。乳飲み子にすぎない順慶が急遽、家督を継ぐことになったのです。成長するまでは叔父の筒井順政が政務を代行し、周囲の脅威から筒井家の地位を死守しました。

筒井氏の略系図
筒井氏の略系図

元の木阿弥

 ところで、「元の木阿弥(もくあみ)」という慣用句のルーツが、この順慶の父・順昭にあることをご存じでしょうか。一度は良くなった状態が、再び元の退屈な状態に戻ってしまうことを意味する言葉です。

 順昭は「幼い順慶が家督を継いだことを敵に知られれば、付け込まれる恐れがある」と考え、自身の死をしばらく伏せるよう遺言しました。そこで、順昭と声が酷似していた「木阿弥」という僧侶を寝所に寝かせ、影武者として周囲を欺き続けたと伝えられています。やがて順慶が成長し、順昭の死が公表されると、木阿弥はお役御免となって元の貧しい身分に戻されました。

 わずかな期間とはいえ、大名さながらの贅沢を味わえたことを幸運とみるか、それとも元の生活に引き戻されたことを不運とみるか、意見が分かれるところですね。

宿敵・松永 久秀との長きにわたる戦い

 新体制で再出発を切った筒井家は、しばらくは大和国での勢力を維持していました。しかし、当時の中央政権を握っていた三好長慶の重臣・松永久秀が永禄2年(1559)に大和へ侵攻を開始。筒井家は次第に防戦一方へと追い込まれていきます。

松永久秀の武者絵(落合芳幾作。パブリックドメイン。)
松永久秀の武者絵(落合芳幾作。パブリックドメイン。)

 そして、順慶が15歳となった永禄7年(1564)に後見人であった叔父・順政が死去。この好機を逃さぬとばかりに、宿敵・松永久秀が牙をむき、十数年に及ぶ死闘の火蓋が切って落とされます。「戦国三大梟雄」の一人に数えられる辣腕・久秀を相手に、順慶は一進一退の攻防を繰り広げました。

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永禄8~9年(1565~66)、筒井城の戦い

 久秀や三好三人衆らが13代将軍・足利義輝を暗殺(永禄の変)すると、久秀の専横をきっかけとして、三好家中では久秀と三人衆の対立が激化。順慶は三人衆と手を結んで大和の勢力回復を狙いますが、久秀は先手を打って筒井城を奇襲します。三人衆からの援軍が間に合わず、順慶は一族の布施氏を頼って布施城へと落ち延びました。

 しかし翌年、順慶はすぐさま反撃に出ます。久秀が堺で三好義継と交戦している隙を突き、見事に筒井城を奪還。この際、順慶は得度し、幼名の藤勝丸から「陽舜房順慶」へと改名しています。

永禄10年(1567)、東大寺の戦い(多聞山城の戦い)

 三好三人衆のもとから出奔した三好義継が、久秀に保護を求めたことで情勢が急変。久秀が義継を擁して多聞山城へ移ると、順慶や三人衆らの連合軍がこれを包囲し、約6ヶ月にわたって圧力をかけ続けました。しかし10月、久秀が敢行した決死の夜襲により東大寺の伽藍が焼失。連合軍は総崩れとなり、順慶も筒井城への撤退を余儀なくされます。


※参考:順慶、松永、三人衆らの合戦要所マップ。色塗エリアは大和国。青マーカーは順慶の居所となった城

永禄11年(1568)、筒井城の戦い

 織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、久秀はいち早く信長に臣従。強力な後ろ盾を得た久秀は、筒井城下へ放火し、総攻撃を仕掛けてきます。かつての味方であった郡山衆までが久秀の先陣を務める窮地の中、順慶は不利を悟って後退。再び居城を追われ、叔父の拠る大和福住城へと逃れました。

元亀元年(1570)、福住城の戦い

 潜伏しながら機をうかがう順慶に対し、久秀は息子の久道を伴って福住城へ侵攻。しかし、城主の福住宗長がこれを鮮やかに撃退し、順慶を守り抜くことに成功します。

元亀2年(1571)、辰市城の戦い

 実権を握った信長と将軍・義昭の関係が悪化すると、義昭は水面下で反信長勢力の結集を図ります。ここで白羽の矢が立ったのが順慶でした。義昭は九条家の娘を養女として順慶に嫁がせるなどして急接近。

 将軍の後援を得た順慶は、久秀攻略の拠点として辰市(たついち)城を築城します。これを阻止せんとする久秀・三好義継の連合軍を迎え撃ち、激戦を展開。久秀の専横に反発する国衆が順慶に味方したこともあり、久秀方は主戦力500人以上が討ち死にする大敗を喫しました。この勝利により、22歳になった順慶は無事に筒井城を奪還したのです。

 幾度となく奪い合われた筒井城は、最終的に順慶のものとなりました。拠点の信貴山城と多聞山城を結ぶルートを分断された久秀は、これ以降、次第に形勢を悪化させていくことになります。

人望厚き順慶、住民から愛される

 筒井城奪還の足がかりとなった辰市城の戦いですが、この過酷な突貫工事には、地元の領民がこぞって協力したと伝えられています。順慶が日頃から領内の農民を手厚く保護していたため、「今こそ恩に報いん」と自発的に力を貸したのでしょう。

 また、武将であり僧侶でもあった順慶は仏教への信仰が篤く、大和の主要寺院にも手厚い保護を行っていたといいます。そのため、興福寺をはじめとする大和の僧侶たちは、久秀との長きにわたる抗争期を通じて一貫して順慶を支持し続けました。強大な敵を相手に孤軍奮闘した順慶にとって、これほど心強い存在はなかったはずです。

現在の興福寺(五重塔と東金堂)。
現在の興福寺(五重塔と東金堂)。

 のちに順慶が大和一国の支配者になるという風聞が流れた際、興福寺の学僧・多聞院英俊が日記に「事実においては寺社大慶、上下安全、もっとも珍重々々」と狂喜乱舞した様子を書き残しています。領民や寺社を大切にしてきた善政が、苦難の時代に大きな人望となって返ってきたと言えます。

光秀の斡旋で信長に仕える

 筒井城を奪還した順慶は、明智光秀の斡旋によって織田信長への臣従を果たします。名門・土岐氏の出身とされる光秀は、和歌や茶の湯を嗜む一流の教養人でした。同じく文化的素養に秀で、茶の湯や謡曲を愛した順慶に深く共感し、信長へと推薦したと考えられています。

 順慶が信長に仕える道を選んだ一方で、皮肉にも宿敵・久秀は元亀3年(1572)に信長を裏切り、将軍・義昭の陣営へと走りました。この選択が、両者の明暗を決定づけることになります。

 元亀4年(1573)に反織田包囲網の中心であった武田信玄が病没すると、義昭は信長に追放され、三好義継も討伐されます。順慶らは信長から多聞山城の攻撃を命じられ、久秀はやむなく城を明け渡して降伏。孫を人質に差し出すことで辛うじて助命され、再び信長の軍門に降りました。

 かつての威勢を失った久秀と、新進気鋭の織田家臣となった順慶。長年の宿敵同士が同じ主君を仰ぐことになったのは、歴史の妙と言わざるを得ません。

名実ともに大和国の支配者へ

 順慶は織田軍の主力として各地の主要な戦役に駆り出され、またたく間に頭角を現していきます。

  • 天正3年(1575):孝子峠の戦い、越前一向一揆
  • 天正5年(1577):平井城の戦い、雑賀攻め、信貴山城の戦い
  • 天正6年(1578):播磨攻め
  • 天正7年(1579):有岡城の戦い
  • 天正9年(1581):比治山砦の戦い、柏原城の戦い

 まさに転戦に次ぐ転戦の日々でしたが、その確かな軍功によって信長からの信頼を不動のものとしました。やがて順慶は信長の身内の女性を娶り、織田一門衆に準じる格別の待遇を受けるようになります。

 信長は天正3年(1575)3月、塙直政(ばんなおまさ)を大和守護に任命。直政は翌年の興福寺の薪能において、順慶と松永久通(久秀の子)を左右に従え、大和平定を誇示しました。順慶は直政の与力として、一時的に大和国の支配を制限されたかに見えましたが、翌年に直政が「天王寺の戦い」で討死します。

 さらに天正5年(1577)、宿敵・松永久秀が再び信長に反旗を翻し、信貴山城の戦いで自害。天正8年(1580)に織田家の重臣・佐久間信盛が失脚すると、名実ともに大和全域の支配権が順慶の手に委ねられました。

 ただし、軍事面においては近畿方面軍の司令官である明智光秀の統括下にありました。外様であり若年の順慶は、一国を任されつつも、光秀の与力(部下)という位置付けだったようです。なお、この時期に居城を筒井城から大和郡山城へと移す計画を立て、大和拝領後に正式に本拠を移転しています。

大和郡山城の天守台跡
大和郡山城の天守台跡

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本能寺の変直後は「日和見」作戦

 天正10年(1582)、本能寺の変が勃発。主君・信長が、順慶の上司である光秀の手によって自害へと追い込まれました。

 光秀の謀反は衝動的な要素が強く、事後の周到な根回しを欠いていたため、周囲の諸大名から同調を得られず孤立していきます。光秀は自身と縁戚関係にあり、文化的な交流もあった順慶に対し、直ちに味方となるよう誘いをかけました。しかし、順慶は家臣たちと連日評定を重ね、慎重に情勢を見極めます。

 光秀は「洞ヶ峠」に布陣して順慶の参陣を待ち続けましたが、ついに色良い返事は届きませんでした。この動向が、後世に「日和見(形勢判断のために様子見をすること)」の代名詞として「洞ヶ峠を極める」と揶揄される原因となります。

 実際には、洞ヶ峠に布陣して相手を待っていたのは光秀の側であり、順慶ではありません。しかし、いつしか「順慶が洞ヶ峠から戦況を高みの見物していた」という話にすり替わり、「優柔不断な日和見主義者」という不名誉なイメージが定着してしまったのは気の毒と言うほかありません。

 その後、まもなく羽柴秀吉が「中国大返し」によって畿内へ急行し、「山崎の戦い」で光秀を撃破したのは周知の通りです。もし順慶が情に流されて光秀に味方していれば、筒井家はここで滅亡していたでしょう。生き残りをかけた、順慶の冷静な合理主義の勝利でした。

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順慶の最期

 山崎の戦いの直後、順慶は秀吉に謁見したものの、『多聞院日記』によれば、参陣の遅れを秀吉から激しく叱責されたといいます。この凄まじいプレッシャーが原因か、順慶は極度の胃痛を患い体調を崩してしまいます。大和一円に広がったこの凶報は、領民たちを大いに狼狽させました。

 その後、無事に所領を安堵されて秀吉の家臣となった順慶ですが、天正12年(1584)頃には病床に伏せることが多くなります。同年の「小牧・長久手の戦い」では秀吉の要請を受け、重い病をおして出陣。しかし、この無理がたたったのか、戦後に大和へ帰国して病没しました。享年36という若さでした。

おわりに

 順慶の死後、養嗣子の定次が跡を継ぎ、秀吉のもとで主要な合戦に従軍しました。天正13年(1585)の国替えによって、先祖代々の地である大和国から伊賀国上野へと移封されます。

 関ヶ原の戦い(1600年)では、東軍に属して所領を維持したものの、慶長13年(1608)にお家騒動をきっかけとして幕命により筒井氏は改易。その後、大坂冬の陣(1615年)の際に豊臣家への内通を疑われ、定次は嫡男順定とともに自害を命じられ、名門・筒井氏の本家は絶たれることとなりました。

 歴史上、筒井順慶には「日和見」というネガティブな印象がつきまといます。しかし、あの怪物・松永久秀を相手に一歩も引かず、泥泥の抗争を勝ち抜いた執念と粘り強さは、紛れもなく一国の一国を背負う名将のそれでした。

 過酷な乱世を繊細な知略で生き抜き、最後はストレス性の胃痛に倒れた順慶。その36年の生涯は短くとも、大和の領民に愛された確かな足跡を今に伝えています。

【参考文献】
《 編集部ピックアップ 》

※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
元・医療従事者。出産・育児をきっかけに、ライター業へと転向。 現在はフリーランスとして、自分自身が「おもしろい!やってみたい!」 と思えるテーマを中心にライティングを手掛けている。 わが子の子育ても「得意を伸ばす」がモットー。

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