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戦ヒス編集部

戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。



戦ヒス編集部
戦国ヒストリー編集部です。いつもありがとうございます。

ご質問の件ですが、編集部は歴史の調査研究を主にしていないため、正確な回答は難しいです。

編集部の現状の見解としては、深芳野が女性であることやその立場・地位等から、史料が少なすぎるため、詳しく書かれてある本もないかと思っております。また、深芳野の肖像画も確認できていないので、同様の理由でおそらく残されていないのでは、と考えております。

ご期待に沿う回答ができておりませんが、何卒ご容赦ください。
2024/06/18 09:13:07
戦ヒス編集部
読者さまから2024年1月24日に届きました声を以下にご紹介します。

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ミサイルが発射されて尾翼が破壊された、という記述についてですが米軍のミサイルの威力を考えれば尾翼の8割だけが破壊されるのはおかしな話です。普通は尾翼だけではなく機体も破壊されその場で墜落すると思います。さらにボイスレコーダーの件ですがリークされた音声と公式が出した文字起こしには「…たいとおっしゃられている方が…」と表記されているため「トイレ」とは言っていません。実際ここの音声が何を言っているのかは不明ですがトイレ以外の可能性もあるという事だけをお伝えします。
長文失礼いたしました。
2024/01/25 11:44:50
戦ヒス編集部
読者さまから2023年9月2日に届きました声を以下にご紹介します。

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わかり易い説明、ありがとうございます。
尊王攘夷に対し佐幕開国という立場が対置できると思いますが、薩長などは実際には攘夷は不可能と早くに気が付いていたと思われます。にもかかわらず、尊王攘夷という言葉が独り歩きしているような気がするのですが、これは間違いでしょうか。
換言すれば、尊王と佐幕が対立の中心であって、攘夷と開国は後者の立場・勢力の方が強かったのではないでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
2024/01/25 11:39:49
戦ヒス編集部
読者さまから2023年3月13日に届きました声を以下にご紹介します。

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秀康が双子であった為、忌避されたとの説もありますよ。
双子の片割れは永見氏を継いでいます。
2024/01/25 11:32:56
戦ヒス編集部
お問合せフォームより読者さま(山本勘助の子孫と思われる方)から2022年9月22日に届きました声を以下にご紹介します。一部、個人情報に関わる部分は伏せております。

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先祖代々の書物や品は度重なる放火により焼失しております。
残されているのは口伝と血筋。その血統も間もなく完全に絶えると思います。勘助の子孫は皇族とも御学友でもありましたが、度重なる災難を避けるために姓を変えました。
子孫が少ない一族で、親族婚などにより子孫に恵まれなかったのが原因の一つでもあります。
家紋は当然同じですが、時には右を時には左を。
家族は姓ではなく名を奪うためだけに争い。失うものが沢山ありました。
山本勘助は存在しました。静岡県●●市、●●寺。現在の姓は言えませんが、子孫にあたるもの達はそこに眠っております。名は●●●、きっとこれを私が伝えなければ歴史も消えてしまい、何もかもがなくなってしまうので、ピンと来たところに伝えさせて頂きます。
また本家も分家も現在は一般人です。個人情報が厳しい中で、お調べになるのは厳しいかと存じますが。
お尋ねするのは自由なのではないかと思います。
失礼致します。
2024/01/25 11:25:27
戦ヒス編集部
読者さまから2022年9月3日に届きました声を以下にご紹介します。

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こちらでは重固のあと、三女のつるさんが改姓により竹中を継ぎ現在に至る旨が記載されていますが、もうおひとり、姫路や垂井の行事に公式に参加されている竹中半兵衛の子孫がいらっしゃることをご存知でしょうか?

その方が、半兵衛とどこで関わるのかは調査しておられませんか?人形師の方と、どちらが本流なのでしょうか?
2024/01/25 11:14:27
戦ヒス編集部
読者さまから2023年5月6日に頂戴したご意見を以下にご紹介します。

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武田信玄の子孫の件ですが芸能人でサックス奏者、俳優の武田真治さんも子孫のようです。
確かTVの特番で芸能人の祖先を調べるような企画で放送されたと記憶しています。
2024/01/25 11:04:06
戦ヒス編集部
読者さまから2023/5/21に頂戴したご意見を以下にご紹介します。

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平維盛さんの墓は津市にあり、彼は生き延び晩年を安濃町で過ごしたと言う伝承が津市では一般的です。私の家も維盛の子孫と伺っています。和歌山県に維盛に詳しい地元の方がみえ、「どっこい生きていた」だと思いましたが、本を書いてみえますので興味があればご参考になさって下さい。
2024/01/25 10:58:12
戦ヒス編集部
読者さまから2023/12/25に頂戴したご意見を以下にご紹介します。

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御重物が当時送られたとしても忠恒はまだ10歳前後で、そもそも義弘の嫡男として扱われていたのは兄の久保(ひさやす)です。
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2024/01/25 10:50:11