関ヶ原の戦いで徳川家康が石田三成率いる西軍を破ったのは周知の事実ですが、唯一、家康本陣に牙を剥いたのが島津義弘でした。家康に死を覚悟させるくらいだったのですが、島津家はなぜか処罰されませんでした。その理由は次のうちどれでしょうか?
( 正解率は 51 % )正解!
ざんねん…
答えは「当主の島津義久が軍事的・政治的な駆け引きをして家康を屈服させたから」
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関ケ原の敗戦での撤退時、島津義弘が敵中突破の手段として用いた戦法は「捨て奸(すてがまり)」と言われています。命を省みないこの戦法は家康の重臣である井伊直政に傷を追わせ、福島正則をも怯ませました。
戦後、当主の島津義久は家康に対し、「関ヶ原の戦いは島津本家は全く関係ない。」と言い通し、温存しておいた兵を前面に出して交渉しました。
当初家康は九州の諸大名に島津討伐軍を号令して島津をつぶすつもりだったようですが、1万を越す島津軍の兵力、九州の大名の疲弊具合のほか、家康の脳裏には関ケ原で島津義弘に突撃された時の恐怖心も焼き付いていたのか、結局はおとがめなしとなりました。