羽柴秀吉の寄騎で黒田官兵衛とともに軍師として有名な竹中半兵衛重治は、ある合戦の陣中で肺結核で若死にしたのですが、それはどこだったのでしょうか?
( 正解率は 60 % )正解!
ざんねん…
答えは「播磨三木城攻めのとき」
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竹中半兵衛重治は関ヶ原近くに領地を持ち、美濃の斎藤家に仕えていた家です。が、主君斎藤竜興にバカにされたため、一夜で稲葉山城を乗っ取ったがすぐにまた城を返したことで欲のない軍師という評判が高い人。
秀吉が信長の武将の時代に、浪人中の半兵衛に懇願して軍師になってもらったという話です。 以後、黒田官兵衛と両兵衛と称され、初期の秀吉の戦略は半兵衛あってこそと言われました。
今ではその功績も、江戸時代以降の創作とか言われちゃってますが、三木城の干攻めもこの人の案だったそうで、病を押して三木城攻めに加わり陣没し三木にお墓が残っています。
また黒田官兵衛の人質の息子(のちの長政)を預かっていたが、官兵衛が荒木村重の城に監禁されたのを信長が官兵衛裏切りとみて人質を殺されるところをうその報告をして隠していた、という功績があります。
官兵衛が救出された後、人質が半兵衛によって無事だったと知り信長も泣いて喜んだとか、黒田長政も一生恩に来たとかいう美談は本物でしょう。