正解!
ざんねん…
答えは「徳川将軍家の正室。戊辰戦争で徳川家の存続のために尽力した」
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天璋院篤姫は江戸時代後期の第13代将軍・徳川家定の正室で、薩摩藩(鹿児島県)島津家から将軍家に嫁入りし、夫の死後も江戸に残って大奥を束ね、戊辰戦争での江戸城の無血開城にも貢献した人物です。 天保6年(1835)に薩摩藩今和泉家の当主・島津忠剛の娘として生まれ、一子(かつこ)と名乗っていました。一子は幼い時から聡明な少女だったそうです。 嘉永3年(1850)になって、幕府は将軍・家定の正室になる女性を島津家に求めてきました。藩主・島津斉彬には適齢期の女子がおらず、一族の一子に白羽の矢が立ったのです。 一子は斉彬の実子として「篤姫」を名乗り、さらに公家の名門・近衛家の養女となって安政3年(1856)12月、将軍家に嫁ぎます。ところが、家定は病弱で子宝に恵まれる見込みはないことが分かるのです。 家定の後継者として、斉彬や水戸徳川家の徳川斉昭らは、斉昭の実子・一橋慶喜を推しますが、幕閣の井伊直弼らが紀州徳川家の慶福(のちの14代将軍・家茂)を推し、両者の対立が激しさを増しました。 篤姫は斉彬の命を受けて、大奥での慶喜支持を取り付けようとしますが、うまくいきませんでした。結局、後継者は家茂に決まり、間もなく家定も病死。篤姫は若くして未亡人となってしまいます。 篤姫には薩摩藩に戻るという選択肢もあったわけですが、夫の菩提を弔うために落飾(らくしょく。髪を剃りおとして仏門にはいること)して「天璋院」となり、前将軍の正室として大奥にとどまります。家茂に嫁いだ皇女・和宮との家柄の差に苦悩しつつも、大奥を束ねていくことに尽力したのです。 慶応3年(1867)に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還をし、直後に王政復古のクーデターが起きます。翌年の鳥羽伏見の戦いを制した新政府軍は東へと進攻を開始し、江戸が戦火に見舞われる危機が迫りました。 このとき天璋院は、静寛院宮(和宮)とともに薩摩藩や朝廷に対し、徳川家救済の嘆願を繰り返しました。その結果、慶喜は死一等を減ぜられ、江戸も大きな戦火から逃れることができたのです。 新政府軍による江戸城開城に従い、天璋院らは大奥から立ち去ります。そのまま江戸に残った天璋院は、徳川宗家を継いだ田安亀之助(徳川家達)の養育に力を注ぐとともに、大奥にいた女性たちが生活に困らないよう面倒をみたといいます。 明治16年(1883)に49歳で生涯を閉じた天璋院。その波乱に満ちつつ、一本筋の通った生き方は、作家・宮尾登美子さんの歴史小説「天璋院篤姫」で描かれ、多くの人々に知られるようになるのです。 ちなみに他の回答選択肢の女性は以下のとおりです。 ・坂本龍馬の妻 ⇒ お龍 ・幕末の女剣士 ⇒ 中沢琴 ・皇女(天皇の娘)⇒ 和宮親子内親王
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