正解!
ざんねん…
答えは「徳川家康を討ち取る程に追い詰めた武将」
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真田幸村は安土桃山から江戸時代初期の武将で、信濃国(長野県)の小さな大名の出身でありながら、江戸幕府を開いた徳川家康を再三苦しめ、大坂冬、夏の陣での華々しい活躍でその名をとどろかせた人物です。
幸村は永禄10年(1567)に信濃国上田城主の真田昌幸の二男に生まれました。軍記物では幸村の名が使われていますが、実名は信繁といい、1歳違いの兄に信之がいます。真田家は、祖父の真田幸隆が信濃の在地領主として武田信玄に仕え、信玄の軍略を支えた人物として知られています。
父の昌幸は武田家滅亡後、北条氏政、上杉景勝、徳川家康といった大大名の狭間で、生き残りをかけて主君を次々に代えていました。二男である幸村は人質として上杉家におくられ、やがて景勝が臣従した豊臣秀吉の元で過ごすことになります。近習として仕えた幸村は、やがて秀吉の側近である大谷吉継の娘を妻に迎え、豊臣家では父や兄をしのぐような存在になっていきます。
秀吉が死去した2年後の慶長5年(1600)、徳川家康は諸大名を動員して上杉討伐に向かい、真田親子も従軍します。ところが、石田三成ら反徳川勢力が打倒家康を掲げて挙兵。昌幸のもとにも三成から密書が届きました。昌幸は息子2人と真田家の進むべき道を話し合いましたが物別れに終わり、昌幸と幸村は石田方へ、信之は徳川方へと、親子が敵味方に分かれる結果となったのです。
昌幸と幸村は、西へと向かう徳川秀忠の大軍を上田城で足止めにし、戦上手ぶりを見せつけましたが、関ケ原の合戦で家康が大勝利したことで、改易処分となります。二人は紀伊国(和歌山県)九度山で蟄居の身となり、昌幸は11年後に死去しました。
慶長19年(1614)、徳川家康による豊臣家討伐の動きが高まる中で、豊臣秀頼のいる大坂城に入るため、幸村は密かに九度山を脱出します。そして大坂冬の陣が勃発し、豊臣方は大坂城に籠城して幕府軍を迎え撃ちます。
幸村は城の南側に出城「真田丸」を築き、幕府軍を打ちのめす戦いぶりで一矢報いますが、秀頼や母の淀殿が家康との講和に応じて停戦となります。ただ、この機会を逃さなかった徳川方は、城の守りの要である堀を埋めてしまったのです。
翌年の大坂夏の陣は野戦を強いられますが、幸村は徳川方の本陣深くまで攻め入り、家康をあと一歩のところまで追い詰めたのです。しかし家康を討ち取るまでにはいかず、武運つたなく幸村は自刃して果てました。
薩摩藩主・島津忠恒は、幸村の戦いぶりを伝え聞き、「真田日本一の兵」と称えています。当時の大名から見ても、幸村が武勇や知略に優れた武将だったことがうかがえます。
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