正解!
ざんねん…
答えは「京都守護職に就き、最後まで徳川幕府に忠義を尽くした」
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松平容保は江戸時代幕末の会津藩藩主で、京都守護職として公武合体や治安維持の中心的な存在でしたが、幕府が倒れたことによって朝敵となってしまう人物です。 容保は天保6年(1835)、美濃高須藩(岐阜県)の藩主・松平義建の六男に生まれました。11歳の時に会津藩(福島県)藩主の松平容敬の養子となり、容敬が死去した嘉永5年(1852)に藩主の座を継ぎました。 ペリー来航(1853)をきっかけに尊王攘夷思想が猛威をふるうなか、幕府は京都の治安維持を担う新しい役職として京都守護職を創設し、容保を抜擢しようと考えました。困難を伴うと予想された京都守護職就任に、最初は容保も難色を示したのですが、初代藩主の保科正之以来、守り続けてきた「会津藩は徳川将軍家を守護しなければならない」という家訓もあり、やむなく引き受けることになったのです。 文久3年(1863)の八月十八日政変では、容保は薩摩藩と組んで攘夷派の中心だった長州藩の追放を断行。その翌年の禁門の変では、巻き返しを図った長州藩を退け、朝廷と将軍家が一体となって政局にあたる「公武合体」を推し進めようとしました。 当時は孝明天皇の御代で、天皇は容保に厚い信頼を寄せており、直筆の御製(和歌)を贈るほどでした。天皇の妹・和宮も14代将軍・家茂に嫁ぎ、これから公武合体が実を結ぼうという時期に家茂が死去し、天皇も崩御してしまったのです。 慶応3年(1867)になると、薩摩藩と長州藩が倒幕へと動き出し、王政復古のクーデターによって、徳川将軍家の財産没収を決めてしまいます。容保は15代将軍だった徳川慶喜とともに大坂城に入り、翌年1月、新政府軍との鳥羽伏見の戦いが勃発します。 この戦いに敗れた慶喜は戦意喪失し、容保を連れて江戸へと逃げ帰ってしまいます。謹慎の意思を示した容保でしたが、長州勢は「京都で弾圧され、会津藩が雇った新選組に仲間を殺された恨み」を晴らすため、容保を朝敵と名指しして会津藩討伐へと突き進んだのです。 容保も「戦うしかない」と決意し、進軍してきた新政府軍に対して徹底抗戦しますが、約1カ月の戦いの末、会津鶴ヶ城は落城して会津藩は降伏しました。 晩年の容保は、日光東照宮の宮司として静かに余生をおくり、明治26年(1893)に亡くなりました。 松平容保は、藩の家訓を守って徳川将軍家を最後まで支え続けましたが、一方で孝明天皇から賜った御製を死ぬまで肌身離さず身につけていたそうです。武士の忠義と尊王の思いを併せ持ち続けた生涯だったのです。
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