正解!
ざんねん…
答えは「「軍神」の異名をもち、合戦に強かったとされる武将」
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上杉謙信は安土桃山時代の武将で、武田信玄との川中島の戦いをはじめ、その生涯のほとんどが合戦に明け暮れ、戦いに強かったことから「軍神」として恐れられた人物です。 謙信は享禄3年(1530)に越後国(新潟県)の守護代・長尾為景の四男として生まれ、幼名を虎千代と言いました。兄の晴景が家督を継ぐことになっていたため、虎千代は幼い時に林泉寺に入れられ、仏門の道を歩むことになります。 晴景が病弱だったこともあり、虎千代は13歳の時に元服して長尾景虎を名乗り、栃尾城に入城。少年城主を侮る勢力もいましたが、景虎は敵をことごとく撃破。やがて晴景に代わって家督を相続し、越後国統一を果たします。 景虎のもとには、関東からは足利幕府の要職である関東管領・上杉憲政が、信濃(長野県)からは北信濃の豪族たちが、それぞれ助力を求めてきました。景虎は彼らを保護するとともに、関東の北条氏康、甲斐・信濃の武田信玄と敵対関係になります。 景虎は関東への出陣に合わせ、関東管領職と上杉姓を引き継ぎ、幕府の権威を背負って北条氏と対決します。このころから景虎改め「上杉謙信」の武名がとどろくようになります。 信玄とは越後との国境に近い善光寺平周辺で何度も激突します。後の世に「川中島の合戦」と呼ばれる戦いは、信玄と謙信という戦国屈指の名将同士の名勝負として語り継がれています。 謙信は生涯妻を持たず、軍神「毘沙門天」を厚く信仰していました。自身を毘沙門天と重ね合わせながら軍団を鼓舞し続けたのです。その勢いは関東や信濃にとどまらず、北陸へも向けられ、やがて織田信長との対立を生むことになりました。 信長の軍勢とは、天正5年(1577)に加賀国(石川県)で激突しますが、謙信は難なく撃破。翌年、謙信は次の遠征に向けた準備を進めていましたが、その矢先、突然意識を失って急死してしまいました。こうして謙信と信長の直接対決は幻に終わっています。 戦いに明け暮れた謙信でしたが、ほとんどの戦国武将が領土拡大を合戦の目的にしていたのに対し、彼の場合は関東管領の責任を果たしたり、自分を頼ってきた者たちに力を貸したりすることが戦いの目的だったと考えられています。 領地が海に面していない山で囲まれていた武田信玄を苦しめるため、周辺大名たちが「塩止め」をした際、謙信は「領民まで苦しめるわけにはいかない」と応じなかったというエピソードがあります。 この話から「敵に塩を送る」という言葉も生まれました。後世の創作とされていますが、こうした故事ができた背景にあるのは、「義の心」を重んじた謙信の生きざまがあったからこそでしょう。
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