正解!
ざんねん…
答えは「倒幕の立役者の1人」
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坂本龍馬は、江戸時代の幕末に活躍した志士・革命家で、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の軍事同盟に尽力し、討幕を目指しつつも、武力行使ではなく平和的に幕府から政権を返上させようと奔走した人物です。
龍馬は、天保6年(1835)に土佐藩(現在の高知県)の裕福な下級武士の家に生まれました。末っ子だった竜馬は、3歳年上の姉・乙女と仲がよく、乙女からは厳しく教育されたとも言われています。18歳の時、剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流の千葉定吉道場に入門します。同じころ、ペリーが黒船を率いて東京湾に侵入する騒動が起きます。龍馬も「異人の首を挙げてやる」という攘夷思想に染まったのです。
土佐藩に帰ってきた龍馬は、海外の事情に詳しい文化人の教えを受け、それまでの攘夷思想を180度転換し、「世界と対等に向き合うためには開国が必要だ」という考えを持つようになります。一つの思想に凝り固まらない柔軟な頭の持ち主だったのです。
龍馬は、開国派の幕臣である勝海舟の弟子となり、操船方法や海軍について学びます。勝の元を離れた後は薩摩藩の西郷隆盛を頼り、船を借りて亀山社中(のちの海援隊)という商社を立ち上げ、海運事業に乗り出します。
慶応2年(1866)、薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が締結されますが、この仲立ちをしたのが龍馬たちでした。同盟の目的は幕府を倒すことにありますが、武力行使も持さない両藩に対し、龍馬は平和的な政権交代を望んでいました。そこで目をつけたのが、自身の出身である土佐藩です。家老の後藤象二郎と交流する中で、幕府自ら政権を朝廷に返す「大政奉還」を提案。後藤の進言を受けた藩主の山内容堂は、徳川慶喜に建白書を差し出したのです。
慶喜が大政奉還を決断したことで、龍馬が望んでいた形での政権交代が実現したかに見えました。しかし、薩長は軍事クーデターを画策し、慶喜を戦いの場に引きずり下ろしたことで、戊辰戦争の火ぶたが切られたのです。この戊辰戦争勃発の時には、龍馬の姿はありません。龍馬は同じ年の11月、京都で潜伏中に暗殺されてしまいました。折しも33歳の誕生日でした。
坂本龍馬は折あるごとに、姉の乙女をはじめ、家族に手紙を書いていました。手紙には自分の近況を報告するだけでなく、乙女や姪をおもんばかる言葉も綴られ、龍馬の家族愛を感じることができます。乙女にあてた文久3年(1863)の手紙には、「日本(ニッポン)を今一度せんたくいたし申候」という決意を込めています。勝海舟の弟子となり、自分のためでも、藩のためでもなく、日本国のために働きたいという若き龍馬の決意が感じられる名文ですね。
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