明智光秀の家臣団の実態──彼らの忠義と二万の軍事力は本物だったのか?
- 2026/07/17
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明智光秀を語る上で、また本能寺の変から山崎の戦いまでの情勢を追う上でも、光秀ただひとりに目を向けていては本質を見誤ります。実際に戦ったのは光秀個人ではなく、家老をはじめとする多くの家臣たちだからです。
若いころはたったひとりの召使いしかいなかったと伝わる光秀ですが、最盛期には二万もの大軍を率いるようになります。その急激な拡大の過程をたどりながら、明智家臣団の結束力や軍事力の実態に迫ります。
若いころはたったひとりの召使いしかいなかったと伝わる光秀ですが、最盛期には二万もの大軍を率いるようになります。その急激な拡大の過程をたどりながら、明智家臣団の結束力や軍事力の実態に迫ります。
五謀反を共にした「五人の家老」
光秀は本能寺の変の前日である6月1日、五人の家老を集めて謀反の決意を打ち明けたとされています。その五人とは、明智秀満、明智光忠(次右衛門)、藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛(三沢秀次)です。彼らが主君の告白をどう受け止めたのか、その本心まではわかりません。しかし、誰ひとりとして異を唱えることなく、離反もせず、光秀の決断に追従しました。
この重臣たちの徹底した従属ぶりは、光秀の確かな人望を物語っていますが、メンバーの顔ぶれを見ると、彼らが付き従ったのも半ば必然であったことが見えてきます。
明智一門の絆
秀満と光忠は明智の一族(親族)です。「明智秀満(明智左馬助)」坂本城と最期をともにした家老
古参の忠誠
藤田伝五は詳細な出自こそ不明ですが、光秀の父の代から明智家に仕えていたと伝わります。溝尾庄兵衛もまた、光秀が織田信長に仕官する以前の下積み時代から苦楽を共にしてきた忠臣だったとされます。「藤田伝吾」は明智光秀の重臣にして謎だらけの武将だった!
利害の一致
斎藤利三は明智家への参入こそ遅いものの、一説に光秀の甥ともされています。さらに利三の妹は、土佐の長宗我部元親の正室でした。当時、信長は四国攻め(長宗我部討伐)を決定しており、長宗我部家との繋がりを守りたい利三にとって、信長への謀反は自身の利害とも完全に一致していたと考えられます。「斎藤利三」光秀の家老。本能寺の変の動機にも絡むキーパーソン
このように、中核をなす重臣たちは「血縁」「恩義」「利害」で強固に結ばれており、裏切る余地などない結束力を誇っていました。
明智家臣団の基本構成(天正9年時)
光秀の家臣団は、具体的にどのようなメンバーで構成されていたのでしょうか。天正9年(1581)当時の陣容について、横山住雄氏の整理(『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫)をもとに見てみましょう。明智一族衆
明智秀満、明智光忠、明智半左衛門、明智孫十郎、妻木氏ら旗本
溝尾庄兵衛、斎藤利三、藤田伝五、藤木権兵衛、四王天政孝、藤田藤八、御牧勘兵衛、加治石見守、阿閉貞征、松田左衛門、柴田源左衛門、並河掃部、伊勢貞興(与三郎)、諏訪飛騨守組下大名(与力)
- 【丹後衆】細川忠興、一色義有、矢部藤一郎
- 【大和衆】筒井順慶、島左近
- 【摂津衆】池田恒興、中川清秀、高山重友、塩川勘十郎
- 【和泉衆】寺田又右衛門尉、松浦安太夫
- 【河内衆】池田丹後守、三好康長
家臣団形成のあゆみ
上記の一覧に至るまで、光秀は信長の天下統一事業の進展に伴い、各地の国人や旧幕臣、そして「与力」と呼ばれる織田家臣たちを急速にその傘下へと組み込んでいきました。その歩みを5つの段階で追ってみます。朝倉義景の家臣時代
越前の大名である朝倉義景から拝領した知行はわずか五百貫であり、この時点では「家臣団」と呼べるほどの家臣がいたかどうかは微妙なところです。この窮乏期を支えたのは、明智一族や、光秀の正妻・煕子(ひろこ)の実家である妻木氏らだったとされています。また、『細川家記』には、溝尾庄兵衛や三宅藤兵衛らも家臣だったようです。足利義昭の幕臣時代
将軍・足利義昭の奉公衆(直臣)だった時代、光秀は山城国に知行地を与えられます。この際、北山城衆を光秀の与力として付属。山本対馬守、渡辺昌、佐竹宗実、近江の磯谷久次がいました。そして元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、光秀は近江国志賀郡(坂本)を恩賞として与えられます。ここで堅田衆の猪飼野昇貞、馬場孫二郎、居初又次郎や、浅井氏の旧臣であった林員清らを新たに家臣として引き入れ、独自の軍事基盤を固め始めます。
しかし、光秀が義昭と決別する頃、『兼見卿記』によれば、北山城衆の山本、渡辺、磯谷が光秀に背いて義昭側についています。彼らにとっての主君はあくまで将軍・義昭であり、一時的な指揮官にすぎない光秀への忠誠心は希薄だったのでしょう。
義昭追放後(信長家臣へ)
将軍・義昭が京都から追放されたのち、信長に降伏した旧幕臣の多くが光秀の与力に編入されました。伊勢貞興や諏訪飛騨守、津田重久らがこれに当たります。なかでも伊勢貞興は名門・政所執事の家柄であり、かつて幕府内で光秀より遥か上にいた者たちが、今度は光秀の部下となる逆転現象が起きました。また、同じく旧幕臣であった細川藤孝も信長に降り、光秀の強力なパートナー(与力)となっています。
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丹波攻め、大坂本願寺攻め
信長の丹波攻めに際して、信長に味方した東丹波の川勝継氏、小畠左馬助、片岡藤五郎らが光秀の与力となりました。さらに大坂本願寺攻めでは重臣の塙直政が戦死したため、信長は直政のもとにいた、南山城衆、大和衆、さらに摂津衆、和泉衆、河内衆を光秀の与力としています。南山城は井戸良弘、御牧景重・景則、狛綱吉。大和衆からは筒井順慶。摂津の高山重友、池田恒興、中川清秀、和泉の寺田又右衛門尉、河内の池田丹後守、三好康長など。畿内の有力大名らが一斉に光秀の組下(与力)へと配属されたのです。
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丹波一国を拝領後
天正8年(1580)、丹波国を平定した光秀は、信長から丹波一国を与えられます。これにより、並河掃部、荒木氏綱、松田左衛門、四王天政孝、加治石見守といった地元の丹波国人衆が家臣団に加わりました。この時点で明智軍は最大規模に達し、およそ二万の軍勢を動員可能になったとされています。光秀はこうして畿内の多くを掌握していたわけですが、軍の統制は光秀が制定した軍規定書によって行動していたようです。しっかり軍を教育し、合理的に指揮していたことがわかります。
また、丹波拝領から本能寺の変まではわずか2年足らずでしたが、光秀は重税を免除するなど善政を敷いていたとか。領民たちはのちに光秀を慕って御霊神社(京都府福知山市)を建立し、「御霊さま」として祀っています。後から加わった丹波衆や領民たちの間にも、光秀に対する確かな信頼と忠誠心が育まれていたことが伺えます。
おわりに:本能寺の変以後も光秀に従ったのは?
その後、天正10年(1582)に本能寺の変、そして山崎の戦いへと動いていくわけですが、家臣団のうち光秀に従った者はどれほどいたのでしょうか。最初に挙げた五人の家老が従ったことはもちろんですが、山崎の戦いにおいて、召し抱えられて日の浅い丹波衆、そして近江衆や旧幕臣の三名も明智軍として戦いました。新参・古参を問わず、光秀の直臣(一族・旗本らの結束力は本物だったと言えます。しかし、その一方で致命傷となったのは、長年の盟友であった細川藤孝(幽斎)・忠興親子、そして筒井順慶が光秀に味方しなかったことでしょう(筒井順慶は一応協力はした)。
光秀は細川忠興に対し、「自らは畿内をまとめたら隠居して嫡子の光慶と忠興に天下を譲るから」とまで条件を提示したにも関わらず、忠興は頑として動かず、妻の玉(細川ガラシャ)を幽閉。父の藤孝も同様に協力要請を拒否し、親子ともども剃髪して信長への弔意を表したとか。筒井順慶もまた、最終的に光秀からの誘いを黙殺し、静観を決め込みました。
光秀にとって完全な誤算だったはずです。しかし、冷徹な現実として彼らが断ったのは、「与力は信長の家臣であり、光秀の組下に編成されていただけ」ということ、さらに彼らは家を守る立場にあったことが大きいでしょう。丹波拝領の時点で二万の軍勢を抱えていたとはいえ、その実態は一門や譜代を除き、ちょっとしたことで崩壊してしまう脆いものだったのかもしれません。




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