正解!
ざんねん…
答えは「四国一帯を支配し、秀吉と戦った戦国大名」
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長宗我部元親は安土桃山時代の大名で、土佐(高知県)の一領主から勢力を伸ばし、四国統一を果たしたものの、豊臣秀吉の四国征伐によって土佐一国の主となった人物です。 元親は天文8年(1539)に岡豊城主(南国市)の長宗我部国親の子として生まれました。幼い時は色白で、本を読んでばかりいるおとなしい少年だったことから、家臣からは「姫若子(ひめわこ)」と陰口を叩かれていました。初陣は22歳と、一般的な武将に比べて遅いデビューでしたが、そのときに槍を振るって大暴れする姿を見せ、「姫若子が鬼若子になった」と家臣たちを安堵させます。それから間もなくして、元親は家督を継ぐのです。 領主となった元親は、群雄割拠する土佐一国の統一を目指します。ライバルとなる近隣の領主たちを次々と撃破し、天正3年(1575)の四万十川の戦いで一条兼定を倒して土佐を平定しました。 やがて元親は、中央で勢力を拡大していた織田信長と同盟を結び、次の目標に四国統一を掲げて、阿波への進攻を開始しました。元親は「一領具足」という兵農分離前の屯田兵を持ち、精強な一両具足たちは、四国統一の戦いで大いに活躍したといいます。 徐々に勢力を拡大していった元親に対し、脅威を感じた信長は同盟を反故にし、対抗勢力に肩入れするだけでなく、天正10年(1582)には四国征伐の大軍を準備します。しかし、同年6月の本能寺の変で信長が死に、元親は危機を脱しました。 元親は阿波、讃岐、伊予を支配下におさめ、天正13年(1585)に四国統一を果たしますが、信長の後継者となった豊臣秀吉は、すかさず四国征伐の大軍を送り込んできたのです。圧倒的な大軍の前になすすべもなく、元親は降伏を余儀なくされました。 秀吉に臣従した元親は土佐一国だけは安堵され、豊臣軍の一員として九州の大友氏救援のため動員されます。島津氏との戸次川の戦いでは、豊臣軍が敗走する乱戦となった挙句、嫡男である長宗我部信親が戦死してしまったのです。 信親は、元親が期待していた後継者だったため、元親の落胆は激しく、その死以降は人が変わったように精彩を欠くようになってしまいます。新しい後継者には二男、三男を差し置き、溺愛していた四男の盛親を据え、反対する者は容赦なく処分したといいます。 元親は秀吉の後を追うように、慶長4年(1599)に61才で死去しました。その後、家督を継いだ盛親は、関ケ原の戦いの後に徳川家康によって改易処分となり、戦国大名としての長宗我部氏は消滅してしまったのでした。
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