正解!
ざんねん…
答えは「羽柴秀吉に仕えた武将で、武勇にすぐれ、秀吉の天下統一に貢献した」
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福島正則は、豊臣秀吉の子飼いの家来として秀吉の天下取りに尽力し、関ケ原の合戦では徳川家康に味方して勝利に導くなど、勇猛果敢で武勇に優れた武将として知られる人物です。 永禄4年(1561)に尾張国(愛知県)で生まれ、若年の頃は ”市松” と名乗っていました。秀吉の親戚だったこともあり、幼い時から小姓として秀吉に仕え、同じ小姓仲間だった加藤清正とも親しくなります。 正則や清正は、織田信長の天下統一の戦いに明け暮れる秀吉とともに、戦場を転戦して武勇を磨いていきます。二人は信長死後の織田家中において、柴田勝家と秀吉の覇権争いとなった賤ケ岳の戦い(1583)で活躍。正則は清正や片桐且元、加藤嘉明らとともに「賤ケ岳の七本槍」としてその名をとどろかせました。 秀吉が天下統一の戦いで勢力も権力も拡大していくとともに、正則も出世街道に乗っていきます。文禄4年(1595)には、織田信長が若いころに治めていた尾張国清洲城主24万石の大名となっています。 ただ、豊臣家臣団は一枚岩というわけにはいかず、正則や清正ら武断派と石田三成ら文治派の間で権力争いが起きていました。慶長3年(1598)の秀吉の死後、正則ら武断派の大名たちは徳川家康に接近。関ケ原の戦い(1600)で、石田三成らが挙兵した際、真っ先に「三成を討つために引き返すべき」と進言したのが正則だったとされています。 正則は徳川方の勝利で終わった関ケ原合戦後の論功行賞により、安芸国(広島県)約50万石を賜り、大大名へと出世を果たしました。ただ、正則は常に「豊臣家の安泰」を願い、豊臣秀頼の行く末を案じていたようです。 時が過ぎて慶長19年(1614)、家康は、豊臣家の本拠・大坂城攻めを決断します。正則は家康に秀頼の説得を申し出るものの、許可をされず、さらには江戸の留守居役を命じられて大坂への従軍さえもかないませんでした。 翌慶長20年、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しますが、豊臣家恩顧の大名である正則にも幕府の刃が襲い掛かります。元和5年(1619)に居城を無断で修築したとして、改易処分が下されたのです。 正則は大幅に石高を減らされ、隠居先の高井野(長野県高山村)で寛永元年(1624)に没しました。
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