正解!
ざんねん…
答えは「騎馬隊で有名な戦国大名」
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武田信玄は戦国から安土桃山時代にかけての武将で、戦国最強クラスの騎馬軍団を率いて領地を拡大しただけでなく、土木事業など民政の面でも優れた人物として人気が高い戦国大名です。 信玄は大永元年(1521)に甲斐国(山梨県)の守護大名・武田信虎の嫡男に生まれ、元服後に晴信と名乗りました。武田家は源氏の流れをくむ由緒ある家柄で、信虎の代に勢力を拡大し、戦国大名となったのです。 信玄が21歳の時、父の信虎を追放して家督を継ぎます。甲斐は南に駿河の今川義元、東に相模の北条氏康という有力大名がおり、信玄は義元、氏康と三国同盟を結びつつ、北の信濃(長野県)へと進攻していき、やがて信濃全土をほぼ手中に収めます。 さらに勢力を伸ばそうという信玄に立ちはだかったのが、越後の上杉謙信でした。天文22年(1553)に始まった川中島の合戦は、11年間に5度も対決し、戦国時代屈指の名将同士の名勝負として後世に語り継がれるほどの戦いになりました。 信玄は内政面でも力を発揮します。洪水被害が顕著だった富士川水系の釜無川に「信玄堤」と呼ばれる堤防を築き、河川の氾濫を防ぐとともに、新田開発を進めていきました。また、金山の開発も積極的に行い、財力の強化に努めました。 永禄11年(1568)、今川義元の死によって弱体化した今川家の領地・駿河(静岡県)へと進出し、さらなる勢力拡大を図ります。駿河を手に入れたことで、隣接する遠江を支配する徳川家康と次第に対立し、同盟者の織田信長との関係も悪化していきます。 信玄は元亀3年(1572)に満を持して大軍を西へと向かわせます。三方ヶ原の戦いでは、浜松城から打って出てきた家康を完膚なきまでに叩きのめして実力差を見せつけ、信長の本拠地である尾張・美濃へと攻め込む勢いを見せたのです。 しかし、信玄は病にむしばまれてしまい、甲斐への撤退を余儀なくされます。その途上、元亀4年(1573)4月、後継者の武田勝頼に対して「自分の死を3年間隠すよう」遺言し、道半ばで生涯を閉じたのです。享年53歳でした。 武田信玄が残したとされる言葉に「人は城、人は石垣、人は堀」という文言があります。信玄は優れた人材の登用や適材適所での配置を大切にしていたとされ、戦国最強の武田軍団を築き上げた礎になった信条でもあります。絶対の信頼を置いていた弟の武田信繁、軍師として活躍した山本勘助、真田家を築いた真田幸隆ら名だたる歴戦の強者たちは、武田二十四将として今もなお、信玄と共にその名をとどろかせています。
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