正解!
ざんねん…
答えは「秀吉の死後、政権をねらう家康を阻止しようとした」
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石田三成は安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉に見いだされて家臣として豊臣家に仕え、秀吉の死後に天下を狙った徳川家康と対立し、関ケ原の合戦で天下分け目の戦いを繰り広げた人物です。 三成は永禄3年(1560)に近江国石田村(滋賀県長浜市)に生まれました。幼少のころから三成は寺の小僧をしていましたが、その寺に長浜城主となった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)がやって来たことが運命の出会いとなります。 鷹狩で立ち寄った秀吉は喉が渇き、茶を所望します。三成は大きい茶碗にぬるめの茶を出しました。秀吉がおかわりを求めると、今度は茶碗半分ほどの量の少し熱め茶を出します。さらにもう一杯頼むと、小さな茶碗に熱い茶を注いで出しました。秀吉は、機転が利き、おもてなしの心を持つ三成が気に入り、家臣に取り立てるのです。 当時の秀吉には、子飼いの家来である加藤清正や福島正則がいました。清正たちのように合戦での槍働きは自分にはできないと考えた三成は、後方支援の役目を担っていきます。合戦に向けた情報収集や兵糧の確保などを得意とし、やがて秀吉が天下統一を目指すようになると、諸大名との外交交渉を担うようになります。 天下統一後は、豊臣政権で事務方(五奉行)のトップへと出世を果たし、石高の基準を決める太閤検地を実行し、朝鮮出兵の際には秀吉に代わって総奉行として大軍のとりまとめにあたりました。 慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、かねてから三成を敵視し、徳川家康と懇意だった清正や正則らとの対立が深まり、ついには清正らが三成を討つために挙兵するという事件まで起こってしまいます。事件をきっかけに政権から遠ざけられた三成は、家康こそが豊臣家にとって最大の敵だとして、反家康の連合軍(西軍)を作り上げていきます。そして、慶長5年(1600)9月15日、関ケ原の合戦が勃発しました。 軍勢の数では引けを取らなかった西軍でしたが、家康軍(東軍)に寝返ったり、日和見を決め込んだりした者も多く、西軍はわずか1日で敗れ去ったのです。戦場を離れた三成は捕らえられ、京の六条河原で処刑されました。 石田三成を語るうえで、大谷吉継との友情は外せません。三成と吉継はともに豊臣家の事務方として働いてきましたが、吉継は病魔に侵されてしまいます。 ある時の茶会で、吉継が茶碗に膿を垂らしてしまいました。他の面々が狼狽するなかで、三成はその茶碗を受け取り、平然と飲み干したのです。これをきっかけに二人の絆は一層深まり、やがて家康への挙兵を最初に打ち明けるまでの信頼関係を築き上げたのでした。
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