正解!
ざんねん…
答えは「天下統一をしたが、元々の身分は低かった人」
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豊臣秀吉は安土桃山時代の武将で、名もない小者から公家の最高位「関白」にまで成り上がり、日本史上でも屈指の大出世を果たした「天下人」として有名です。
ちなみに他の選択肢に関してですが、天下統一を目前に謀反で討ちとられた人は織田信長です。また、秀吉は朝鮮出兵はしたものの、朝鮮や中国を征服してはいません。そして江戸幕府を開いた人は徳川家康です。
秀吉は、天文6年(1537)に尾張国中村郷(現在の名古屋市中村区)で生まれたとされています。出自は定かではなく、父親は足軽とも百姓とも言われています。青年期には木下藤吉郎と名乗り、職業や主(あるじ)を転々としながら織田信長と出会い、奉公するようになります。秀吉の働きぶりは抜群だったといい、この頃「おね」(のちの北政所)と出会い、結婚しました。
信長のもとで、秀吉は数々の戦いや調略で実績を上げながら出世を果たしていきます。やがて信長から中国地方攻略の総大将を命じられ、毛利氏との対決に臨むのです。ところが天正10年(1582)に本能寺の変が起き、信長が明智光秀の謀反によって殺されます。中国路にいた秀吉は、急いで毛利氏と和睦をしたのち、光秀を倒すために進軍を開始するのです。後の世に「中国大返し」と呼ばれる秀吉の英断でした。
秀吉は、織田家の実力者だった光秀や柴田勝家を倒し、信長の後継者に名乗りを上げ、天下統一にまい進していきます。さらに徳川家康ら全国の大名たちに臣従を誓わせ、天正18年(1590)の北条氏討伐を仕上げにし、天下統一を成し遂げたのです。
秀吉は、公家の最高位であり、天皇を補佐する官職の「関白」に昇りつめ、朝廷から「豊臣」の姓を賜るほどの立身出世を果たしました。また、農民たちから武器を没収する刀狩令を発令し、兵農分離を進めました。
天下統一を果たした秀吉の次の目標は中国の明の征服で、その足掛かりとして朝鮮半島に出兵します。文禄元年(1592)の文禄の役には、全国の大名に動員をかけ、自らも九州の肥前名護屋(現在の佐賀県)に出陣し、陣頭指揮を取るのです。 その翌年、子宝に恵まれなかった秀吉に、拾(後の秀頼)が生まれます。幼子を溺愛する秀吉は、後継者で関白を継いでいた甥(おい)の秀次と不仲になり、ついに秀次とその一族を粛清するというお家騒動を起こしてしまうのです。
慶長3年(1598)、重い病の床についた秀吉は、徳川家康らに「秀頼のことを頼む」と言い残して死去します。辞世の句「露と落ち 露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢」のとおり、秀吉にとっては夢のような生涯だったのでしょう。
豊臣秀吉が上司、部下、敵味方を問わず、人心掌握術にたけていたことを「人たらしの名人」と評されます。戦わずして相手を味方に引き入れることができた秀吉が、その能力を最大限発揮し続けたからこそ、天下人になれたのではないでしょうか。
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