【ブラッサム】文豪たちとの出会いが生んだ作家・宇野千代の原点
- 2026/10/05
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今回は、千代が初めて作家たちと出会ったときのエピソードをご紹介します。ドラマにもたくさんの作家が登場するので、誰のモデルなのか予想しながら読んでいただくと、よりドラマを楽しめるかと思います。
それでは、さっそく見ていきましょう。
いとことの同棲生活 ~仕送りが途絶え、貧乏のどん底へ
大正5年(1916)、19歳の宇野千代は、第三高等学校(現在の京都大学)の学生だったいとこ・藤村忠が住む京都へ向かい、知恩院付近の下宿で同棲生活をはじめました。大正時代に同棲というと意外に感じるかもしれませんが、当時は嫁としてふさわしいと認められるまで、または妊娠するまでは、たとえ同居していても婚姻届を出さないというケースがよくありました。
忠と千代の関係も藤村・宇野両家の公認で、大正6年(1917)には、忠が東京帝国大学法学部に入学したのを機に、二人は上京。小川未明の「物言わぬ顔」に感銘を受け、彼に私淑していた千代は、真っ先に未明の元を訪ねました。
同棲生活は順調でしたが、忠の実家からの送金が途絶えるようになると、生活は苦しくなっていきます。忠は学業そっちのけで役所で働き、千代は雑誌社の事務や家庭教師など職を転々としました。
雑誌社では月給13円で会計係の下のまたその下の仕事を担当。千代は階段下の席で帳面をつけながら、二階の応接室へ上がっていく谷崎潤一郎の袴や広津和郎の靴の先をチラッと見たことがあるそうです。
わずか18日間のアルバイト。西洋料理店でのウェイトレス時代
大正8年(1919)、本郷三丁目の燕楽軒(えんらくけん)でウェイトレスとして働きはじめたのも生活のためでした。その頃、暮らしはさらに困窮し、千代が持っていた着物はたった一枚だけ。夏には袷(あわせ)の裏を剥がして単衣に仕立て直した着物で店に出ていました。ただし、お化粧はバッチリしていたそうです。そんな貧乏のどん底にいた彼女の救世主となったのが、通りの向かいにあった『中央公論』の名編集長・滝田樗陰(たきた ちょいん)でした。彼は毎日昼食時に現れては、千代の受け持ちの席に座り、15分で5皿の料理をたいらげ、一気にビールを飲み干し、席を立つときには必ずチップとして50銭銀貨を置いていったのです。
この50銭銀貨に千代は励まされたといいます。樗陰のチップをもらうことが店に出る目的となり、質草を受け戻すための金額が貯まった18日目に彼女は店を辞めました。
早々に辞めた理由には、みすぼらしい着物を着ているのに化粧だけは念入りにした姿を人目にさらしたくなかった、という思いもあったようです。
当時について、昭和47年(1972)75歳のときの著作『私の文学的回想記』の中で、千代は次のように記しています。
「そんなレストランなぞで働くことは、その頃では、人に自慢の出来ることではない、と思われていたのですが、いまでも私の心の中に、やはり、自慢には出来なかったなと言う思いがあります。」
また、レストランのウェイトレスなのに「カフェの女給」のように書かれることについては、言い訳にはなるけれど、と前置きしたうえで、レストランの仕事は「女給などと言われた種類の職業とは違った形の仕事」であり、「料理や酒などを運ぶだけで、そのほかの応対は禁じられていたので、生来、愛想のない自分でも勤めることが出来た」(『私の文学的回想記』)と述べています。
芥川龍之介の小説『葱』のモデルになった宇野千代
滝田樗陰は、中央公論社を訪ねて来た作家を店につれて来ることが多く、その中には芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫といった流行作家たちがいました。また、店には「まだ文士と言うほどではない、画家と言うほどでもない今東光」(『生きて行く私』)が訪れることもあり、彼は店が終わる時間まで外で待っていて、千代を家まで送ってくれたそうです。
店を辞めてからも東光との親交は続き、あるとき佐藤春夫と連れ立って千代の家まで来たことがありました。二階の手すりから見た佐藤春夫の赤いネクタイと派手な格子縞の洋服姿は、とても印象的だったといいます。
東光と千代は本郷から小石川界隈をよく散歩しました。夕暮れの街をただ話をしながら歩き、夏には氷屋でかき氷を食べたりしたそうです。
二人の散歩中の出来事を聞いた芥川龍之介は、それをもとに小説「葱」(大正8年)を書き上げました。『葱』は、ざっくりいうと、カフェの若い女給がデート中に思わず八百屋で葱を買ってしまい、その「生活くささ」に連れの青年が急に冷めてしまうという内容です。
『葱』のモデルになったことについて、千代は次のように述懐しています。
「のちにこの話を聞いた私は、いかにも、そんなときに、走って葱など買いに行きそうな自分のことを、おかしく、またちょっぴり可哀そうにも思ったものでした。」
自著で「誰も信じないけど、今東光は絶世の美少年だった」と繰り返し述べている千代は、昭和47年(1972年)、日本芸術院賞を受賞した際のインタビューで、当時の二人の関係について次のように語っています。
燕楽軒時代の千代は「見詰めずにはいられぬ美人」で「本郷の女王」だった
東光の弟で小説家の今日出海(こん ひでみ)は、千代が燕楽軒で働いていた頃はまだ学生で、兄と散歩している千代を見ても、さして不思議がることもなく、詮索もしない、飾り気のない性格の持ち主でした。今日出海の回想によると、その頃の千代は
「本郷の女王(クイン)」
「見詰めずにはいられぬ美人」
だったそう。また、作家の久米正雄は燕楽軒時代の千代について、
「僕流の嫉妬めいた観察を敢えてすれば、一番ひそかに、彼女の心を惹いたのは、又尊敬していたのは、芥川龍之介だったかも知れない」
と書いています。
芥川と一高時代からの親友だった久米ならではの発言といえるでしょう。燕楽軒で働いていた頃の千代は、だれもが認める美人だったようです。
おわりに
燕楽軒のわずか18日間という短い時間は、宇野千代の運命を大きく動かすことになりました。名立たる作家たちとの出会いについて、千代は次のように記しています。
「このことは私が、後に小説を書こうなどと思いついたことの、原因であったかと考えます。人の一生で、何が機縁でどんなことが起るのか、誰にも分りません。しかし、若いときに人から受けた印象くらい強いものがあるでしょうか。知らぬ間に私の中に、何か植えつけられたものがあったかと思うのです」
また当時の貧乏生活について、千代は自分のことを貧乏ともかわいそうとも思ったことはなく、そんなものは何でもない、ただそれだけのことだと言い、こう感じていたといいます。
「自分自身のほんとうの、”生きている願望” みたいなものは、まるで別のところにある、それは何か分からないけれど、まるで別のところではっきりと生きている」
その頃千代は、毎週木曜日に懸賞小品を掲載する『万朝報』に応募し、時々一円の賞金を得ていました。彼女の「生きている願望」は、ひそかに、しかしすでにしっかりと動き始めていたのかもしれません。


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