【ブラッサム】話題のNHK朝ドラ主人公モデル・宇野千代ってどんな人?「文学・恋・おしゃれ・仕事」の4つの魅力をご紹介
- 2026/09/24
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千代さんの人生は、まさに事実は小説よりも奇なり。彼女は、女性の生き方が大きく変わる激動の時代に、己の心にどこまでも正直に生きた先駆者でした。今回は、ドラマのネタバレを避けつつ、彼女の「文学」「恋」「おしゃれ」「仕事」という4つの側面を、時代背景とともにお届けします。
※以下、敬称略
文学と宇野千代:便所で新聞を貪り読んだ少女が「売れっ子作家」に
宇野千代は明治30年(1897)、山口県岩国市の裕福な酒造家の次男・宇野俊次とトモの長女として生まれました。明治後期の日本は、日清・日露戦争を経て近代化が急速に進み、西洋の思想や文学が日本独自の形で定着し、成熟し始めた時期にあたります。文壇では、国民的作家となった夏目漱石や自然主義を代表する島崎藤村が活躍しました。
千代は幼い頃から読書が好きでした。しかし、当時は「女性に学問は不要」という風潮がまだ根強く残っていた時代です。千代は父親に読書を禁じられたため、便所にこっそり新聞を持ち込み、掲載されていた小説を貪るように読み、文学の世界へ没頭していったといいます。
大正時代に入ると、日本の文壇は大きな転換期を迎えます。夏目漱石や芥川龍之介らが活躍する一方で、志賀直哉をはじめとする『白樺派』が流行し、同時に『私小説』というジャンルも定着していきました。
女学校に通う千代の文学熱はさらに増していきます。平塚らいてうが編集長を務めた雑誌『青鞜』を読み、文学好きの友人たちと同人誌を作り、変名で文芸誌に投稿を始めるようになりました。
やがて千代は、自身の経験を赤裸々に描く私小説の才能を開花させ、大正10年(1921)、懸賞に応募した小説『脂粉の顔』が一等に輝きます。翌年には「墓を発(あば)く」が『中央公論』に掲載され、文壇デビューを果たしました。
彼女は尾崎士郎や梶井基次郎など、教科書に載るような名だたる文士たちと深く交流し、人気女流作家としての地位を確立していきました。当時の文壇には、吉屋信子や宮本百合子、林芙美子といった才能あふれる女性作家たちが登場し、千代は彼女たちと切磋琢磨しながら、女性ならではの生々しい心理や本音を描き出し、流行作家となっていったのです。
千代の才能は年を重ねても衰えず、昭和32年(1957)、60歳のときに『おはん』で第10回野間文芸賞を受賞。昭和57年(1982)に発表した自伝的小説『生きて行く私』はベストセラーとなりました。
恋愛と宇野千代:4度の結婚と離婚「家制度」に縛られなかった自由恋愛
宇野千代を語る上で欠かせないのが、その華麗なる恋愛遍歴です。彼女は生涯で4度の結婚(事実婚を含む)と離婚を経験しました。相手は従兄に始まり、作家の尾崎士郎、画家の東郷青児、そして文学者の北原武夫と、いずれも時代を彩った才人たちです。
現代の感覚でも驚くような回数ですが、戦前は明治民法下の「家制度」が絶対的な権力を持っていた時代です。結婚は当人同士のものではなく「家と家」の結びつきであり、身分や家格で決められた相手との見合い結婚が主流でした。女性は夫の家に入り、従うことが美徳とされていたのです。自由恋愛などもってのほか、離婚や不倫は女性にとって社会的な破滅を意味しました。
しかし、千代はそのような古い価値観を軽やかに飛び越えました。彼女の恋愛は、決して刹那的なスキャンダルではありません。千代は自身の恋愛について、川端康成と丸谷才一との対談では「好きな人のために、自分の好きなことをするのは一番嬉しい」と語り、森繁久彌との対談では、自身について「別れた男とその後もうまくつき合える名人」、「つらくて一人で泣くことはあっても、男の前でヨヨと泣くことはない」と明かしています。
彼女は相手を深く愛し、尽くすことはあっても寄りかかることはありませんでした。才能をリスペクトし、男たちから多くの刺激を受けながらも、関係が冷めれば未練を残さず身を引く。そのような、きわめて自立した関係性を貫いていたのです。
おしゃれと宇野千代:時代の最先端を歩んだ「モダンガール」
大正12年(1923)の関東大震災後、復興が進む東京では新しい価値観をもった女性たちが姿を見せるようになりました。仕事をもって男性から自立し、自由を謳歌する「モガ(モダンガール)」です。彼女たちは断髪に洋装姿、足元にはハイヒールを履き、軽やかに街へ繰り出していきました。宇野千代はモガの先駆けとされ、作家の吉屋信子らとともに初期モダンガールの一人に数えられています。モボ・モガが流行語となったのは大正15年(1926)。しかし千代はそれ以前、断髪が流行する前から髪をバッサリ切り、周囲の度肝を抜きました。また、洋装が珍しかった昭和5年(1930)には、すでにモダンな洋服をおしゃれに着こなしていたといいます。
そんな彼女がおしゃれに目覚めたのは、17歳のとき。いたずら心から母親の白粉(おしろい)をつけたとき、「世にも美しい娘の顔」になった自分に気付いてからというもの、おしゃれは彼女の生きがいとなりました。
晩年、千代は著書『行動することが生きることである』の中で、こんな言葉を残しています。
「おしゃれは自分のためにだけするのではなく、半分以上は、自分に接する人たちの眼に、気持ちよく映るように、と思ってするのだから。」
人前に出る以上、見苦しくないように整えるのが当然の気遣いと考えていた千代は、「おしゃれしないのは、泥棒よりひどい」という言葉まで残しています。
仕事と宇野千代:雑誌創刊から着物デザインまで「生涯現役」を貫いたビジネスの才覚
「私は十六歳の春、小学校の教師になったときから、八十四歳の今日現在に至るまで、何か仕事をしていなかったと言うことは、一日もなかった。」
ベストセラーとなった自伝『生きて行く私』の言葉通り、宇野千代は小説家の枠に収まらない、稀代のビジネスウーマンでもありました。
彼女が作家として頭角を現した大正末期から昭和初期は、女性の社会進出が本格的に始まった時期でした。タイピストや美容師など、職業を持ち、外で働く女性が急増した時代です。過去に放送された朝ドラ『あぐり』のモデルである吉行あぐり氏が美容院を開いたのは昭和4年、『カーネーション』のモデル・小篠綾子氏が洋装店を開業したのは昭和9年で、まさに女性たちが自らの腕で仕事を生み出していた時代でした。
そんな中、昭和11年(1936)、千代は出版社「スタイル社」を設立し、日本初のファッション誌『スタイル』を創刊します。パリ帰りの藤田嗣治が表紙を手がけ、最新の洋装グラビアやメイク、人生相談までを網羅した内容は斬新で、当時の女性を熱狂させました。千代は編集者として辣腕を振るうだけでなく、自らモデルとして誌面を飾っています。
さらに、戦後の昭和26年(1951)からは着物のデザインにも進出。彼女の代名詞となる「桜」をあしらったモダンな着物はブランド化され、生涯のビジネスとなりました。
98歳で亡くなる直前までペンを握り続け、生涯現役を貫いた千代は「金儲けを決して卑しいこととして退けなかった」と語っています。彼女にとって仕事とは、時代の最先端を楽しみながら、自分らしく自立して生きるための最高の手段だったのかもしれません。





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