なぜ宇喜多忠家はいつも「鎖帷子」を着ていたのか? 知られざる人物像と兄・直家との関係

  • 2026/09/10
宇喜多忠家の肖像(岡山県立博物館所蔵。パブリックドメイン)
宇喜多忠家の肖像(岡山県立博物館所蔵。パブリックドメイン)
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 戦国時代の「三大梟雄(きょうゆう)」と言えば、宇喜多直家・斎藤道三・松永久秀が知られています。

 今回は暗殺と謀略を駆使して下克上を果たし、備前一国を切り取った宇喜多直家……の弟である宇喜多忠家(うきた ただいえ)をご紹介。果たしてどんな人物で、どんな人生を送ったのでしょうか。

宇喜多忠家の生涯

 宇喜多忠家が生まれたのは天文2年(1533)。兄の直家とは4歳差でした。幼くして祖父の宇喜多能家(よしいえ)が暗殺され、さらに父の興家(おきいえ)も敗死したことで、宇喜多家は没落してしまいます。

 忠家は兄の直家らと助け合い、雌伏の時を経て祖父の仇である嶋村盛実(しまむら もりざね)への復讐を果たしました。そこから虚実を織り交ぜながら暗殺と謀略を繰り返し、主君の浦上宗景(うらがみ むねかげ)から独立。やがて西の毛利輝元、東から進出してきた織田信長の間を反服しながら備前一国の切取りを成し遂げたのです。

 しかし直家が織田家に臣従すると、毛利家との最前線に立たされ、直家は苦境の中で世を去りました。忠家は家督を継いだ宇喜多秀家(ひでいえ。直家嫡男)を支えながら、宇喜多家存続を賭けて奮闘します。

 天正10年(1582)に本能寺の変で信長が横死を遂げると、織田政権を乗っ取った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従しました。やがて豊臣政権において重きをなし、老いてなお文禄の役(第一次朝鮮征伐)に自ら出陣するなど活躍します。

 しかし秀吉の死後、自分の嫡男である宇喜多知家(ともいえ)が、秀家を相手に家督争いを起こしました。この「宇喜多騒動」では、結局秀家が宇喜多の家督を守り抜きますが、忠家は騒動の責任をとって隠居したそうです。

 そして慶長14年(1609)2月15日に77歳で生涯に幕を下ろします(異説あり)。

稀代の謀略家であった兄との関係

 ここまで宇喜多忠家の生涯をざっと見てきました。幼くして没落するも、兄直家と助け合いながら御家再興を果たして大名に成り上がり、兄の死後は遺児秀家を盛り立てる……かなり波乱万丈の人生と言えます。

 兄の直家と助け合ってきたのは事実ですが、その兄弟愛は決して美しいばかりではありませんでした。『陰徳記』によると、忠家は稀代の謀略家である兄を恐れており、直家と会うときは必ず衣服の下に鎖帷子(くさりかたびら)を着込んでいたそうです。

 「この兄と一緒にいる限り、いつ自分が斬り殺されるかわからない」――絶えずそんな不安に駆られていたのでしょう。一度疑えば決して信じることはないし、一度殺すと決めたらその覚悟は断じて覆ることはない。そんな兄の姿を誰より間近で見てきたからこそ、忠家は直家が世を去るその瞬間まで、暗殺される恐怖と闘いながら支え続けたのでした。

自身も大概だった忠家

 こう書くと、いかにも忠家が「兄に恐怖しながらも、その野望の成就を献身的に支え続けた苦労人」みたいに感じます。

 しかし忠家も忠家で、いつ暗殺されてもおかしくないだけのやらかしが絶えない問題児でした。かなり気性が荒く、直家の家老分であった小野田四郎右衛門(おのだ しろうゑもん)をはじめ、直家の側近をたびたび斬り殺していたそうです。

 『浦上宇喜多両家記』などではこの様子を「度々無理なる人斬」と記され、忠家が彼らを斬った動機も理不尽なもの(例えば態度が気に食わないレベル)だったのでしょう。おまけに兄の直家から備前富山城(とみやまじょう。岡山市北区)を任された時などは、まったくの誤解から叛旗をひるがえし、籠城する騒ぎを起こしていました。

 こうした短慮の繰り返しを見るにつけ、よく赦されたものだと呆れてしまいます。忠家の鎖帷子エピソードは、忠家自身が身に覚えがあり過ぎる故の、自業自得と言わざるを得ません。それでも兄弟が殺し合う事態に陥っていないところを見ると、直家にとっては、こんな乱暴者でも大切な弟だったのでしょう。

文武両道の名将だった

 人格面ではちょっと?問題があった忠家ですが、しかし戦国乱世を生き抜いたのは伊達じゃありません。忠家は文武両道に通じており、例えば『言経卿記』などで忠家は連歌や古典文学、茶の湯を嗜んでいたことが伝えられています。

 忠家は秀吉側近の大村由己(おおむら ゆうこ)や楠木正虎(くすのき まさとら)らと連歌会に参加したり、また公家の九条兼孝(くじょう かねたか)より『源氏物語』のレクチャーを受けたりしていました。また、千利休から茶杓(ちゃしゃく)を贈られていることから、茶の湯の技量を認められていたのでしょう。

 信仰心にも篤く、天正3年(1575)には兄と共に備前国金山寺の復興を実現しました。日々命のやりとりをしていればこそ、自他の死生観について深く考え、死後についても思いを馳せていたのかもしれません。

 一方の「武」においては、例えば天正6年(1578)の上月城攻めでは毛利軍と共に尼子勝久や山中幸盛(鹿之介)らを攻めて武功を立てています。のちに毛利と対立して天正8年(1580)に小早川隆景(こばやかわ たかかげ。毛利元就三男)の大軍が襲来した際は、これを撃退する大殊勲を上げました(辛川崩れ)。

 さらに文禄元年(1592)には文禄の役で朝鮮半島へ渡航し、碧蹄館(へきていかん)の合戦では軍議のもどかしさに席を蹴り、自ら先駆けして武功を立てています。続く幸州山城(こうしゅうさんじょう)の合戦で負傷してしまったものの、書状では「こんな傷など、痛くも痒くもないわい」などと強がっていました。

 深い教養と猛々しい武勇をあわせ持った忠家は、文武両道の名将だったと言えるでしょう。

終わりに

 今回は宇喜多忠家の生涯をたどってきました。いつも鎖帷子を着ているというから、ずっと兄を恐れ続けた苦労人イメージでしたが、なかなかクセの強い人物だったようです。

 人間不信と権謀術数の塊みたいな直家との関係が実に絶妙で、いつか大河ドラマ「宇喜多兄弟!」が実現しないものでしょうか。戦国時代には、他にもたくさんのクセが強い武将が活躍していたので、また改めて紹介したいです。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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