西行法師の妻子の謎──妻の出自、蹴落とされた娘、そして歴史に埋もれた「4人の子」の足跡
- 2026/08/03
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「願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
「ほとけには桜の花をたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば」
上記の二句は、筆者が特に惹かれている西行の歌です。平安末期から鎌倉初期にかけて2000首以上の歌を残し、勅撰和歌集にも265首が選ばれた西行。その独自の人生観や死生観が、見事に凝縮されていると感じるからです。
さて、西行がもとは“佐藤義清(さとうのりきよ)”という名の武士であったことは広く知られています。3歳で父を亡くした彼が、20歳で鳥羽院の「北面の武士(正確には下北面)」に抜擢された経緯には、今なお謎が多く残されています。
また、23歳で突如出家して“西行”と名乗った理由についても、「待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)との失恋説」や「親友(佐藤左衛門憲康)の急死説」など諸説存在し、真相は定かではありません。
このように数々の逸話に彩られた西行ですが、今回は“西行(佐藤義清)の妻子にまつわる謎”にスポットを当て、史料を紐解きながらその真相に迫ってみたいと思います。(※補足:本コラムでは、佐藤義清時代の出来事についても表記を「西行」に統一しています。)
【目次】
【謎1】権力者の血筋? 西行の妻の秘められた出自
鴨長明の著した『発心集』の内容を要約すると、西行の妻は「九条民部卿にゆかりある人物」となっています。この九条民部卿とは、鳥羽院の腹心と言われ、権勢を振るった権中納言・藤原顕頼(ふじわらあきより)のことです。しかし、西行の妻と顕頼の「どのようなゆかり」なのかを確定させる決定的な史料はなく、長らく彼女の出自は謎とされてきました。ですが、西行が語り手として書かれた『撰集抄』の中に、この謎を解く重要な手がかりが残されています。
(西行の妻が)やゝほどへて涙をおさへて云やう、「きみ心をおこして出給ひしのち、(中略)一人のむすめをば、母方のをばなる人のもとにあづけをきて…」
これは、出家した西行に対し、妻が「娘を“母方のおば”に預けて自らも出家した」と打ち明ける場面です。後述するように、西行の娘は顕頼の娘である“冷泉殿(藤原朝隆の妻)”のもとへ預けられました。つまり、冷泉殿が西行の妻にとって「母方のおば」にあたるならば、西行の妻は「九条民部卿(藤原顕頼)の孫」という計算が成り立ちます。
顕頼には冷泉殿のほかに5人の娘がおり、西行の妻の母(顕頼の娘)が具体的に誰であったかまでは特定できません。しかしこの記述が事実であれば、権力者の孫を妻に迎えた西行は、将来を大いに嘱望された北面の武士だったことが窺えます。
【謎2】縁側から蹴落とされた娘と、その後の切ない運命
先ほどの『撰集抄』には「冷泉殿に預けられた娘」が1人登場しましたが、さまざまな史料や文献を紐解いていくと、彼女を含めて西行には4人の子がいた可能性が浮き彫りになってきます。まず、西行の子の中で最も有名なのが、この「冷泉殿に預けられた娘」でしょう。西行が出家を決意した際、縁側から蹴落とされたとされる幼子です。
作者不明ながら西行の一生を記した『西行物語』より、有名な蹴落とされるシーンを原文で紹介します。
この暮の出家さはりなく遂げさせ給へと、三宝に祈請申して、宿へ帰りゆくほどに、年ごろたえがたくいとをかしかりし四歳なる女子、縁に出迎ひて、父の来たるがうれしさよて、袖に取りつきたるを、たぐひなくいとをしく、眼もくれて覚えけれども、これこそは煩悩のきづなを切ると思ひて、縁より下へ蹴落したりければ、哭き悲しみけれども、耳にも聞きいれずして中に入りぬ。
愛くるしい4歳の娘への断腸の思いを断ち切り、俗世との絆(煩悩)を断つためにあえて蹴落としたという、悲痛な出家劇です。しかし西行はよほどこの娘のことが心配だったのでしょうか。『発心集』には、その後の心温まる、そして少し切ない後日談が記されています。興味深い内容なので、原文を織り混ぜて要約してみます。
西行が出家するとき家督を弟(仲清)に譲ります。その際、
「幼き女子の殊にかなしうしけるを、流石に見捨てがたく、いかさまにせんと思へども、うしろやすかるべき人も覚えざりければ」(幼くて特に可愛がっていた娘を、やはり見捨てることはできず、どうしようと思うが、安心できる人も思いつかなかったので)この娘を弟の養女にして預けます。
娘はその後、
「九条の民部卿の御女に、冷泉殿と聞こえける人」(藤原顕頼の娘である冷泉殿)の養女となります。冷泉殿はこの娘を非常に可愛がって育てていましたが、冷泉殿の妹が播磨三位家明(藤原家明)と結婚すると、冷泉殿はこの娘を妹の侍女にします。それを聞いた西行は不本意に思い、密かに娘を連れ出し、高野山の麓の天野という所で尼になっていた妻のもとへ送りとどけます。
以後、この娘も尼となって母と共に仏道修行に励んだといいます。
なお『発心集』には、出家から数年後、西行が幼い娘の様子を人知れず見に訪れたエピソードも残されています。しかしこの時、成長した娘は眼前のお坊さんが実の父親だとは気づかず、
「いざなむ。聖のある、恐ろしきに」(さあ行こう。僧がいて恐ろしいから)と言って一緒に遊んでいた子と家の中に逃げていったそうです。
父・西行の切なさは察するに余りありますが、彼がいかに娘を慈しんでいたかが痛いほど伝わる逸話です。
【謎3】高僧・重職として歴史に名を残した二人の息子
“僧都”となった息子
日本の初期の系図集である『尊卑文脈』によると、西行の子として「権律師 隆聖(りゅうしょう)」の名が記されています。他の文献にも「九条僧都隆聖(『愛染王紹隆記』より)」や「隆聖僧都(『四帖秘訣』より)」といった名前で登場していることからも、隆聖は僧都(そうづ)の位まで登った高僧であることが分かります。僧都(そうづ)とは、僧侶の階級(僧階)の一つで“僧正(そうじょう)”に次ぐ2番目の地位です。同じ僧でも位官とは無縁だった西行とは違った人生を送ったようですが、『新古今和歌集』には彼が詠んだ次の歌が収められていますので、歌の才能は父譲りだったのでしょう。
「朝ごとの閼伽井の水に年暮れて 我が世の程の汲まれぬるかな」
“権別当”となった息子
平家物語の異本である『源平盛衰記』の「頼朝叙正四位下。崇徳院遷宮事」には、次のような一文があります。「慶縁を以て権別当とす。故西行法師の子。」
崇徳院の怨霊を鎮めるために建立された粟田宮(あわたぐう/原文では栗田宮)の「権別当(副長官)」に、西行の子である「慶縁(けいえん)」が就任したという記録です。
西行は生前、崇徳院から深い恩顧を受け、院の没後にはその怨霊を慰めるため讃岐へ参詣したほど浅からぬ縁があったようです。そうした背景を思えば、息子の慶縁が栗田宮の重職に就いたというのも大いに頷けます。
他の史料にはほとんど登場しないマニアックな人物ではありますが、彼もまた西行の血を引く息子であったと認定しておきましょう。
【謎4】武士時代の悲劇? 幼くして世を去ったもう一人の娘
鎌倉時代に成立した教訓説話集『十訓抄』の「第八 可堪忍諸事事(諸事を堪忍すべき事)」には、次のような話が載せられています。まだ北面の武士だった西行が仲間と弓を射て遊んでいる最中、「かなしくしける女の、三四ばかりなりける」(とても可愛がっていた三〜四歳の娘)が病気で亡くなった知らせを聞いたが、周りの仲間はそのことを知らないので、「このことこそすでに」(すでに、もう)と言うだけで、特に様子を変えることなくその場に居続けた。
この内容は後の時代に書かれた説話集の教訓事例ですので、史実か否かの確証はありません。しかし、仮に実在したとなると、“蹴落とされた娘”のほかに、幼くして逝去した姉妹がいたことになります。
最後に
今回は、西行の妻子にまつわる数々の謎を考察してきました。ただし、手がかりとした『撰集抄』『十訓抄』『発心集』はいずれも説話集であり、また『西行物語』も生没年など史実との相違が多く見られるため、史料としての信憑性は高くはありません。
しかし、だからこそ西行という人物は、時代を超えて人々の心を惹きつけて止まない「謎多き漂白の歌人」であり続けているのかもしれません。



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