悲劇の帝・崇徳天皇──父の冷遇と保元の乱に翻弄された生涯

  • 2026/08/21
崇徳院(『天子摂関御影』より。パブリックドメイン)
崇徳院(『天子摂関御影』より。パブリックドメイン)
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 皆さんは、日本三大怨霊の一角を占める保元の乱の中心人物・崇徳(すとく)天皇をご存じですか?

 疫病を蔓延させたり雷を落としたりと、祟(たた)りの恐ろしさばかりが誇張して語られがちですが、生前は「不義の子」という噂のせいで父に疎まれ、波乱に満ちた厳しい人生を送ってきました。

 今回はそんな崇徳天皇の生涯と人物像をわかりやすく解説していきます。

なぜ父に嫌われた?「不義の子」疑惑の真相

 崇徳天皇は元永2年(1119)、鳥羽天皇と中宮(正室)である藤原璋子(しょうし/たまこ)の第一皇子として生まれました。諱(いみな)は顕仁(あきひと)です。

 崇徳が産声を上げた平安時代後期は、藤原氏が権力を握った摂関政治が終わりを迎え、上皇が政治の実権を握る「院政」へと移行した時期でした。

 院政とは、皇位を退いた上皇(または出家した法皇)が政治を行う体制のことで、朝廷の最終決定権を持つ人物は「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれました。これは崇徳の曽祖父にあたる白河法皇の代に始まった、まだ新しい政治体制です。
(※ちなみに、天皇は皇位の継承者、上皇は天皇の位を次代に譲った後の尊称です。さらに上皇が出家して仏門に入ると「法皇」と呼ばれます。)

 待望の第一皇子誕生……にもかかわらず、父である鳥羽天皇は崇徳を疎んじました。ここで当時の複雑な人間関係を整理してみましょう。治天の君は崇徳の曽祖父である「白河法皇」、その孫が「鳥羽天皇」、そして鳥羽の中宮・璋子は権大納言・藤原公実の娘です。朝廷では上皇・法皇が最も偉く、天皇や中宮はその決定に逆らえません。

崇徳院の略系図
崇徳院の略系図

 鎌倉初期の説話集『古事談』によると、崇徳は「白河法皇と璋子が密通して生まれた子」だと噂されていたそうです。つまり「曽祖父と母の間の不義の子」というわけです。真相は不明ですが、当時66歳の白河法皇が璋子を非常に寵愛していたのは事実でした。祖父との力関係からそれを黙認するしかなかった鳥羽天皇は、幼い崇徳を「叔父子(おじご)」……すなわち「叔父でありながら我が子でもある存在」と呼び、露骨に忌み嫌ったといいます。

 崇徳自身には何の罪もないだけに、胸が痛みますね。余談ですが、あの平清盛も白河法皇のご落胤(隠し子)ではないかと噂されていたとか。

 崇徳の即位は保安4年(1123)、わずか3歳の時。当時まだ健在だった白河法皇が、鳥羽天皇の意向をろくに聞かずに即位させたため、これもまた鳥羽の反感を強める要因となってしまいます。

 大治4年(1129)に白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇による院政が始まりました。雲行きが怪しくなり始めたのは、鳥羽上皇と寵妃・藤原得子(美福門院)との間に異母弟・躰仁親王(なりひとしんのう。のちの近衛天皇)が生まれてからです。鳥羽上皇は得子との子を溺愛し、崇徳天皇に対して「躰仁親王に皇位を譲るように」と迫りました。崇徳はある条件と引き換えにこれを受け入れます。

 永治元年(1141)、躰仁親王が即位して近衛天皇となりました。崇徳の中宮・聖子が躰仁親王を養子にしていたため、順当にいけば皇太子の即位に伴い、上皇となった崇徳が鳥羽から院政を引き継ぐはずでした。が、鳥羽上皇は、崇徳の意に反して躰仁親王を「皇太弟(天皇の弟)」として即位させたのです。

 天皇の「父」であれば院政を行えますが、単なる「兄」では政治の実権を握ることができません。崇徳は深い無念を噛み締め、引き下がるしかありませんでした。

繰り返される裏切り……追い詰められて起きた保元の乱

 譲位後の崇徳上皇は「鳥羽の田中殿」に移り住み、政治の憂いを忘れたい一心で、もともと好きだった和歌の世界に没頭します。

 一方の鳥羽上皇は、崇徳の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子とし、「近衛天皇に後継がないまま亡くなった場合は、重仁親王に皇位を継がせる」と約束しました。この時期は親子の不仲がさほど表面化しておらず、崇徳と鳥羽の親子関係も比較的安定していたと思われます。

 しかし久寿2年(1155)、もともと病弱だった近衛天皇が17歳(数え年)の若さで崩御。そして新たに立てられた天皇は、重仁親王……ではなく、美福門院の養子である守仁親王の父・雅仁親王(後白河天皇)でした。崇徳上皇にしてみれば、父に約束を破られた上に同母弟に先を越されるという、二重の裏切りを味わうことになります。

 なぜ鳥羽法皇は約束を破ったのでしょうか。それは、「近衛天皇が若くして亡くなったのは、崇徳上皇と藤原頼長が呪い殺したからだ」と邪推したからです。崇徳上皇の報復を恐れる美福門院、父・忠実や弟・頼長と対立していた藤原忠通、そして後白河の乳母の夫である信西(しんぜい)らの諫言も、拍車を掛けたことは想像に難くありません。

 濡れ衣を着せられ、院政への道も完全に絶たれた崇徳上皇を、さらなる不幸が襲います。

 保元元年(1156)7月、鳥羽法皇が病に倒れました。崇徳上皇は臨終の間際に駆けつけましたが、面会を固く拒絶され、実の父の死に目に立ち会うことすら叶いませんでした。これは他ならぬ法皇本人の命令であり、側近の葉室惟方を枕元に呼び、「崇徳に遺体を見せるな」とわざわざ言い残していったそうです。

 法皇崩御のわずか数日後、都に不吉な噂が流れます。

「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」

 法皇の崩御に乗じ、上皇(崇徳)と左府(藤原頼長)が結託して、国家を揺るがす謀反を企んでいると言うのです。

 7月8日には藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を募ることが禁じられ、朝廷の命を受けた源義朝らの兵が頼長の屋敷(東三条殿)を没官(財産没収)しました。摂関家トップの藤原氏がこのような処分を受けるのは前代未聞のことです。

 実際に忠実や頼長が謀反を企んでいたかは疑問視されており、法皇の死後に崇徳側の報復を恐れた「美福門院・藤原忠通・信西」陣営が仕掛けた先制攻撃(つまり冤罪)だったとする説が現在では有力です。しかし、謀反の疑いをかけられた以上、崇徳上皇陣営に残された道は後白河天皇陣営と戦うことだけでした。

 7月9日夜、追い詰められた崇徳上皇はわずかな側近とともに屋敷を脱出し、洛東白河にある統子内親王の御所へ入り、頼長の軍勢と合流して挙兵しました。これが歴史に名高い「保元の乱」です。

 しかし、崇徳陣営の戦力は圧倒的に不足していました。唯一の希望は、重仁親王の後見人であった平忠盛の子・平清盛の加勢でしたが、清盛は後白河天皇方につきます。夜襲を受けた崇徳陣営はわずか一晩であっけなく敗北してしまいました。

「保元の乱(1156年)」武士が活躍!朝廷内の混乱が軍事衝突へ

血で呪いを書き殴り……四国・讃岐で遂げた異形の最期

 乱の敗北後、崇徳上皇は剃髪したのち出家の決意を固めて投降したものの、後白河天皇方は許さず、四国の讃岐国(現在の香川県)への配流を決定。同行を許されたのは寵妃の兵衛佐局とごくわずかな女房のみで、正室の聖子や幼い子どもたちとは生き別れとなります。

 これまで「崇徳院」と呼ばれていた上皇ですが、罪人として都での称号を奪われ、「讃岐院(さぬきのいん)」という蔑称に落とされました。

 讃岐院は現地での軟禁生活の中で仏教に帰依し、日々写経をしたり和歌を詠んだりして過ごしました。地元の女性と結ばれて子どもをもうけたという伝承もありますが、心の底では常に都への帰還と赦免を願い続けていました。

 配流から3年後、崇徳院は五部大乗経の写本を完成させます。これは保元の乱の戦没者の供養に捧げたもので、自らの誠意の証として、「京都の仁和寺に納めてほしい」と朝廷に頼みました。ところが後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、ろくに読まずに送り返してきたのです。

 この非道な仕打ちに、崇徳院の絶望と怒りは頂点に達しました。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん(我が身は日本をたたむ大悪魔となり、天皇を民とし民を天皇にしてやる)」

「この経を魔道に回向す(このお経を、魔道へと捧げる)」

 後世の軍記物語『保元物語』などでは、讃岐院は自分の舌を噛み切り、その血で写本に呪いの言葉を書き込んだと伝わります。伸び放題の爪と髪を振り乱し、生きて天狗・怨霊と化した恐ろしい姿のまま憤死したと描かれました。

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画。パブリックドメイン)
讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画。パブリックドメイン)

 史実としての最期は長寛2年(1164)、配流先での穏やかな病死(享年46歳)だったとされています。しかし崩御後、都で相次いだ天変地異や関係者の相次ぐ不審死を「崇徳院の怨霊による祟り」と猛烈に恐れた朝廷は、14年後の治承2年(1178)、その怒りを鎮めるために「讃岐院」の蔑称を改め、正式に「崇徳院」の追号を贈り直すことになります。

おわりに

  以上、悲劇の天皇・崇徳院の波乱に満ちた生涯をみてきました。

  実のところ、崇徳天皇が「白河法皇と璋子の密通で生まれた」という説は、後代に成立した説話集『古事談』にしか記載がなく、歴史的な信憑性は低いと見られています。しかし、父である鳥羽上皇が崇徳天皇を執拗なまでに冷遇していたのは事実です。後世の人々も「曽祖父との不義の子でもなければ、ここまでの冷遇は説明がつかない」と感じて語り継がれていったのでしょうね。

 時代の策謀に翻弄され続けた人生を知ると、単なる「恐ろしい怨霊」というイメージの裏にある、一人の人間としての深い悲しみが浮き彫りになってきますね。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。

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