芥川龍之介と夏目漱石の師弟関係──『鼻』絶賛の出会いから晩年の心理的影響まで

  • 2026/08/20
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 芥川龍之介が夏目漱石の最晩年の弟子であったことをご存じの方も多いと思う。実はこの2人の交流は、漱石の急逝によってわずか1年ほどで幕を閉じてしまう。しかし、漱石が芥川に与えた影響の大きさは、その作品にしっかりと刻まれている。

 2人の師弟関係はいかなるものだったのあろうか。様々な文献から紐解いてみたい。

漱石山房

 夏目漱石は明治40年(1907)、早稲田南町に居を構えた。この晩年の邸宅を漱石自ら「漱石山房」と名付けたという。彼はここで数々の名作を執筆したが、その名声が高まるにつれて来客の多さに悩まされるようになる。

 この状況を解消するため、来客の面会日を木曜日に限定したのが、漱石門下の一人であった鈴木三重吉である。木曜日には漱石との面会が誰にでも許されたため、実に多彩な顔ぶれが集まった。その中には、内田百閒や寺田寅彦、そして和辻哲郎など錚々たる面々がいた。

 当時、東京帝国大学の学生だった芥川龍之介は大正4年(1915)、一高時代の先輩で既に漱石の門下生となっていた林原耕三の紹介により、親友の久米正雄とともに「木曜会」に参加するようになったとされる。

 師弟関係というと堅苦しい雰囲気を想像しがちだが、木曜会の勝手は少し違っていたようだ。実際、芥川は随筆『漱石先生の話』で次のように述べている。

「小宮先生に『あんなに先生に議論を吹っかけて良いものでしょうか』ときくと、小宮さんが言うには『先生は僕達の喰ってかかるのを一手に引受け、はじめは軽くあしらっておき、最後に猪が兎を蹴散らすように、僕達をやっつけるのが得意なんだよ。あれは享楽しているんだから、君達もどんどんやり給え』……というので、それから私達もちょいちょい先生に喰ってかかるやうになりました。」

 漱石は門下生たちを指導することを好まず、自由な雰囲気で議論するのを旨としていたようだ。

「漱石山房」書斎の漱石(『漱石全集 第十三巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
「漱石山房」書斎の漱石(『漱石全集 第十三巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

絶賛された『鼻』

 大正5年(1916)、『新思潮』(第4次)の創刊号にて短編小説『鼻』を発表した芥川は、漱石から一通の書簡を受け取っている。そこにはこう記されていた。

「あゝいふものを是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます。」

 まさに手放しの絶賛ぶりであった。この短編は、『今昔物語集』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」をベースに、人間のエゴイズムと世間体に振り回される滑稽さを風刺した傑作である。芥川自身も「文章としては一つも気になるところはない」と言い切ったというから、余程の自信作であったようだ。

 実は、この『鼻』の前に同人誌に『羅生門』を発表していた芥川であったが、周りに全く評価されず自信を喪失していた。当時、既に文壇の巨匠となっていた漱石の影響力は大きく、芥川は一躍注目の新人作家となる。

文学的父親 夏目漱石

 多数の門下生を抱える漱石だったが、いわゆる徒弟制における門下生とは異なり、自らの作風を押し付けることはしなかったらしい。実際、門下生の1人の阿部次郎は次のように述べている。

「若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。ー中略ー先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである」

 漱石のやり方は、当時としては珍しかったという。尾崎紅葉が文学結社「硯友社」を設立して強力な徒弟制のもとで運営したこととは対照的である。芥川独自の文学が順調に醸成されていった背景には、こうした自由な雰囲気があったことは間違いない。

 芥川と漱石の親密さは大正5年(1916)夏の書簡からも窺える。書簡のやりとりの中で、芥川は書いたばかりの小説『芋粥』、『猿』についての批評を漱石から受け止め、漱石の助言を真摯に受け入れているという印象であった。文面からは単なる師弟の関係を超え、まるで親子のような雰囲気さえ漂う。

 また、芥川の随筆『漱石先生の話』には、漱石の癇癪持ちや見栄っ張りといった、人間臭い部分に触れた内容が多い。しかし、文面からは呆れているのではなく、微笑ましく思っている心理がにじみ出ている。

 芥川は漱石に対し、尊敬する師匠という枠を超えて、ある種の父性を見出していたのではないかと私は睨んでいる。

喪失感

 創作活動も軌道に乗り始めた大正5年(1916)12月上旬、漱石が急逝する。突然の訃報に大きな衝撃を受けた芥川は、後に自伝的小説『或る阿呆の一生』で当時の心境を次のように記している。

雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は巻煙草に火もつけずに歓よろこびに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……

 危篤であっても敬愛する漱石に会えることが嬉しかったのだろうか。漱石を失い、深い喪失感に苛まれていた芥川は、漱石の葬儀で偶然森鷗外を見かけた。以前から交流のあった鴎外だが、漱石がメンターのような存在であったのに比べ、鷗外は文学者としての理想像的存在だったようだ。葬儀で鷗外にばったり会ってしまった芥川は、改めてそのオーラに圧倒されてしまったのではないか。

 そもそも、『鼻』『芋粥』『羅生門』などの作品は漱石・鴎外の二大巨頭の影響を受けたものだという。漱石が「業」の文学を追求したとするならば、鴎外は「智」の文学を追求したと思われる。この2つの要素を融合させて芥川は自分の文学を極めようと考えていたようだ。

 しかし森鷗外という知の巨人を意識することによって、芥川は自分自身を追い詰めていくようになったと私は考えている。かつて漱石は書簡で芥川に「ゆっくり行きなさい。牛のようにゆっくり行きなさい。」とアドバイスしたが、これは裏を返せば「急げば書けなくなるよ」という警告でもあったろう。

 漱石を失い、鷗外を畏怖するようになった芥川は徐々に小説が書けなくなっていく。

あとがき

 芥川龍之介がオカルト好きだったことは、あまり知られていない。本人も自身のドッペルゲンガーが数回目撃されるなどの現象を体験しているのだが、彼の死にまつわるミステリーもまた、ドッペルゲンガー現象を彷彿とさせるものであった。

 昭和2年(1927)7月24日、芥川龍之介は自ら命を絶つが、その遺体近くの廊下には、遺作の1つとも言われる『人を殺したかしら』の原稿束が置かれていたという。

 これは、実にぞっとする話である。

 というのも、この原稿は死の1週間程前に東京日日新聞の記者の前で破り捨てたものだったからだ。さらに文末の脱稿日付が昭和2年5月26日となっていたが、この時期、芥川は新潟に滞在していたはずであり、整合性が取れない。これらの不可解な点から芥川のドッペルゲンガーがこの小説を書いたのではないかという説まであるという。

 ここまで書いてきて、急にあることが気になり始めた。芥川のドッペルゲンガーが目撃され始めたのはいつ頃なのだろうか?

 調べると、知人で女優の山川浦路が帝国劇場の廊下で芥川のドッペルゲンガーとすれ違ったという話が最初であるらしい。これがどうやら漱石が亡くなってまもなくの1917年頃の話だというのだ。ひょっとすると、漱石の死を境にして、それまでの自分と鴎外を意識し畏怖する自分に魂が二分されてしまったのかもしれない。

【参考文献】
  • 関口安義『芥川龍之介の手紙』(大修館書店 1992年)
  • 山下浩『本文の生態学 漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部 1993年)
  • 関口安義(編)『芥川龍之介 新辞典』(翰林書房 2003年)
  • 芥川龍之介『決定版 芥川龍之介全集』(千歳出版 2022年)
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  この記事を書いた人
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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