妾は全員店長、子は30人! 日本初の飲食チェーンを創った奇才・木村荘平

  • 2026/09/09
木村荘平の肖像(パブリックドメイン)
木村荘平の肖像(パブリックドメイン)
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 現在でこそサイゼリヤ、吉野家、マクドナルド、くら寿司などの全国展開チェーン店が盛り上がりを見せていますが、明治の世にその先駆けとも言える牛鍋屋“いろは”を創業したのが木村荘平(しょうへい)です。

茶業の名家・上林家に生まれる

 荘平は天保12年(1841)、山城国宇治田原の豪農・上林(かんばやし)家に生まれます。上林家は、徳川家康が岡崎城にいた時代から茶師として仕え、伏見城の戦いでは城代・鳥居元忠とともに殉節した上林越前竹庵を先祖に持つ由緒ある名家です。現在でも「お茶のかんばやし」として有名なお茶屋さんです。

 そんな名家の血を引く荘平ですが、実父が木村家に夫婦養子に入ったことで上林家を離れることになります。若き日の荘平は素行が悪く、女性問題で失敗しては家財を持ち出したり、16歳で大坂の力士・小野川秀五郎の弟子になったりと破天荒を極め、ついに勘当されてしまいます。

 しかし、動乱の時代にこそ強揮を発揮するタイプだったようです。生家に連れ戻されてからは改心して茶屋の家業に精を出し、青物屋(野菜商)も開業。文久1年(1861)には20歳で青物問屋23軒の組合取締役に就任しました。さらに、当時の茶の輸出ブームに乗ってオランダ人と組み、海外輸出を成功させます。神戸港で汽船問屋や茶問屋も立ち上げると、わずか1年足らずで商人の間で一目置かれる存在となり、京都の薩摩藩邸にも出入りするようになりました。

牛鍋店“いろは”開店と事業拡大

 そこで知り合ったのが、後に初代大警視(現在の警視総監)となる川路利良です。近隣住民から悪臭などの抗議が出ていた浅草千束の官営屠場や、食肉市場の調査について川路から依頼され、ここで荘平は牛馬の飼育や屠殺に関わるようになります。

 そうこうするうち、三田にあった内務省勧業寮育種場の一部を払い下げてもらい、馬匹改良を手掛けながら興農競馬会社を設立。自前で競馬場をつくり、賞金付きのレースを始めます。これが後の上野不忍池競馬場に発展します。その傍ら、官設屠場の運営も任され、運営が軌道に乗ると民営化を目指して東京売肉問屋組合の創設に励みます。

 荘平は経営の才があったのでしょうか。北海道での甜菜(てんさい)製糖会社の設立やビール製造、鉱泉旅館の経営にも進出し、さらに東京府下日暮里町屋での近代的火葬施設「東京博善会社」まで開設します。

 名刺には1ダース以上の役職名を連ねた荘平ですが、結局彼が名を残したのは、生鮮肉を手に入れやすい立場を活かして始めた牛鍋屋“いろは”でした。明治14年(1881)、港区芝三田四国町にに一号店を開業。手軽に牛肉が味わえるとして、折からの牛鍋ブームに乗って瞬く間に東京市内22か所に支店を広げます。

 「牛肉を食べなければ文明開化に乗り遅れる」との風潮もあり、三田の店には慶応義塾生だった福沢諭吉もよく通ったと言います。競合店をあっという間に押しのけて広がったこの「チェーン店方式」こそが、急速な事業拡大の秘密でした。

お妾さんを活用したチェーン展開

 現代において、チェーン店とは「単一資本で11以上の店舗を直接経営・管理する小売業または飲食店の形態」と定義されています。商業史によると、チェーンストアは19世紀後半にアメリカ・イギリスで生まれ、日本では明治末期に登場したとありますが、荘平はもっと早くにこの営業形態を実行していました。

 本部は、芝浦の後藤象二郎の別邸を割烹旅館に改装したものです。ここで肉や酒類を一括で仕入れて約束手形で支払い、米や木炭代、従業員の給料などの支出は各支店で処理します。これを「総合家政」と称していました。全ての店は二階建てで、派手なステンドグラスで人目を引き、全店舗の女性店員には「黒襟をかけて丸帯に襷(たすき)掛け」という統一した着物を着せるなど、当時としては極めて斬新なブランディングを行っていたのです。

 そして何より特徴的だったのは、各店舗の経営責任者に「自身のお妾(妾)さん」を配置したことです。昔の旦那が囲った女に小料理屋を出させるようなものですね。店には順番に「い・ろ・は…」と名前を付け、荘平自身は赤塗りの人力車に乗って各店を巡回し集金して回りました。1日では回りきれないため、夜になると立ち寄った先の店で夜を明かしたといいます。

「ひとかどの男なら妾の一人や二人囲って当たり前」という当時の風潮によるものですが、彼なりの倫理観もあったようです。京都に正妻を残して上京していた荘平は、正妻が亡くなると第一号の妾を正妻に繰り上げます。女性選びもきちんと計算しており、「士族の出身で一定の学問と見識はあるが、生家が落ちぶれて生活に困っている」というような女性を選び、彼女たちの家も暮らしが立つようにしてやりました。荘平は、いずれは"いろは47文字"全ての店を開きたいと考えていたとか。

計30人。子だくさんの末路

 多くの妾を持てば、自ずと子供も増えます。荘平がもうけた子供は男13人女17人の計30人。荘平はその全員を認知し、男子は長男・次男は早世しますが、三男は「荘蔵」・四男は「荘太」、以下「荘五」「荘六」など、荘の字と組み合わせた名前を付けます。女子には長女「栄子」は普通ですが、後になると「十四子」「十五子」といった具合です。

本部の芝浦館に集まる木村家家族(『木村荘平君伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
本部の芝浦館に集まる木村家家族(『木村荘平君伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 子供たちは破天荒で奔放な父親への反発からか、皮肉にも多くが文学者や芸術家として世に出ます。長女の栄子(木村曙)は明治女性作家の草分けとなり、四男の荘太は文芸評論家となります。荘五は経済史家・四女の清子は新劇女優、荘六は手品師、荘七は俳優、荘八は画家、荘十は直木賞作家、荘十二は映画監督になるなど、稀有な文化人一族です。

 荘平は子供たちに商売を継いでほしかったようですが、唯一荘平の手元に残ったのは父親譲りの女好きである三男の荘蔵だけでした。せめてこの息子だけでも後継者として仕込もうとしますが、安楽な生活に慣れたドラ息子はその自覚も持たないまま父親の死に直面することになります。

 健康が自慢だった荘平は、自身の身体を気遣う事もせず、異変に気づいた時には顎癌(がくがん)の末期でした。遺言を残す気力も体力もないまま、明治39年(1906)4月17日、65歳で帰らぬ人となります。皮肉にも、彼が建設したものの、料金が高すぎて利用者のなかった日暮里斎場の特等窯・第一号利用者となったのは荘平本人でした。

 遺された妾とその子供たちの間では遺産を巡って大騒ぎになりますが、法的補償は何一つありません。結局、三男の荘蔵の妻が一切を取り仕切り、遺産全額を長子相続、つまり夫のものとしてしまいました。しかし経営の才などまるで無かった荘蔵の手により、20軒以上あった「いろは牛鍋屋」はたちまち手放され、豪華なステンドグラスの店舗もろとも荘平の築いた遺産も消えてしまいました。大正時代に入り、荘蔵が自動車の運転手をしているのを見かけた人がいるそうです。

おわりに

 時代の動乱期には、機を見るに敏な人物が時流に乗って一気にのし上がることがあります。しかし残念ながら、その多くは次の世代へ富と事業を継承できずに消えていきました。一代で巨万の富を築き、一代で儚く消え去る――それこそが「成り上がり者」の宿命なのかもしれません。

【参考文献】
  • 八百啓介(編)『外来食文化と日本人』(弦書房 2020年)
  • 芳賀登(編)ほか…『日本人物情報大系』(皓星社 2000年)
  • 西東秋男(編)『年表で読む日本食品産業の歩み 明治・大正・昭和前期編』(山川出版社 2011年)
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  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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