虎狩り、札束点火、至宝買い占め…大正の成金・山本唯三郎の破天荒すぎる生涯
- 2026/09/01
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大正8年(1919)12月20日、三井物産の創設者として知られる「鈍翁(どんおう)」こと益田孝の邸宅(品川・応挙館)に、住友吉左衛門や團琢磨(だんたくま)など名だたる財界人40余名が集まりました。
目の前に置かれたのは『佐竹本三十六歌仙絵巻』。しかし、この日本美術の至宝はすでに巻物の体を成していませんでした。バラバラに切り離された断片(切断本)を売り立てようというのです。なぜこのような事態に立ち至ったのか? そこには、一人の成り上がり者の存在がありました。
目の前に置かれたのは『佐竹本三十六歌仙絵巻』。しかし、この日本美術の至宝はすでに巻物の体を成していませんでした。バラバラに切り離された断片(切断本)を売り立てようというのです。なぜこのような事態に立ち至ったのか? そこには、一人の成り上がり者の存在がありました。
国有地開墾で大地主に、最初の成功を収める
その成り上がり者、山本唯三郎(たださぶろう)は明治6年(1873)11月、現在の岡山市北区建部町に生まれます。幼くして養子に出されますが、養家が貧しかったため、竹細工を売ったり豆腐屋で働いたりして家計を支えました。10歳で大阪へ出て印刷工場で働きながら、同志社系の泰西学館(夜間学校)に通い、英語を学びます。その後は北海道へ渡り、牛乳配達をしながら札幌農学校(現・北海道大学)で学びました。卒業後は新渡戸稲造の後援を受け、「10年間開墾すれば国有地の払い下げを受けられる」制度を利用して33万平方メートルの土地を手に入れ、最初の成功を収めます。
日清戦争に勝利した当時の日本において、唯三郎も「大陸雄飛」の夢を追い、コークスの原料である開平炭の販売を手掛けようと中国へ渡ります。渋沢栄一の口利きもあり、日中貿易に携わる「松昌洋行(しょうしょうようこう)」で支配人として働き始めた唯三郎は商才を発揮し、材木や船舶事業にも手を広げます。第一次世界大戦の勃発を見越して松昌洋行の本社を東京に移すと、石炭輸送業で巨万の富を築き、一躍「船成金」の仲間入りを果たしました。
その余勢を駆って大正5年(1916)、地元・岡山から政友会推薦で衆議院議員(代議士)に立候補しますが、あえなく落選。しかし東京・大田区に和洋折衷の大邸宅を構え、成金ぶりを大いに誇示しました。
朝鮮へ虎狩りに
落選の腹いせでもないでしょうが、唯三郎は翌大正6年に朝鮮へ虎狩りに出かけます。「征虎隊(せいこたい)」と名付け、マスコミ関係者を含む総勢31人を率いて日本を出発。現地で雇った猟師や人夫を加えると総勢150人にも及んだ一行を8隊に分けました。第1〜5隊は咸鏡道(ハムギョンド)へ、第7・8隊は全羅南道(チョルラナムド)へ向かい、第6隊は金剛山(コンガンサン)で熊狩りという別行動をとらせます。
当時の朝鮮半島北部には、全長2.9メートルほどのチョウセントラが多数生息しており、橙黄色の体に幅広くはっきりとした黒い縞模様が特徴でした。現地では「山神の使い」と尊ばれた虎を、日本人が遊興目的の狩猟対象としたことは、現地の人々のひんしゅくを買いました。
1ヶ月ほど駆け回ったものの、肝心の虎の収穫はわずか2頭。それでも豹や猪、鹿など30頭余りを仕留め、獲物は貨車1両分にもなりました。獲物を携えた一行は、まず京城(現・ソウル)の朝鮮ホテルで名士120余名を招いて試食会を行います。
さらに帰国後には、東京の帝国ホテルにて、清浦奎吾(枢密院議長)、田健治郎(逓信大臣)、仲小路廉(農商務大臣)、神尾光臣(陸軍大将)、渋沢栄一(子爵)、大倉喜八郎(男爵)など軍政財界の大物や新聞記者ら200名余りを招き、大盛重な「虎肉試食会」を開催しました。
待合室から食堂へ続く廊下には竹が植えられ、何頭もの虎の剥製が配されました。正面舞台では、この遠征のために作られた歌に合わせて「虎狩り踊り」が演じられます。「加藤清正 昔の事よ、今じゃ山本 征虎軍、虎来い 虎来い」という勇ましいものでした。
挨拶に立った唯三郎は、誇らしげに語りました。
「戦国の武将は陣中の士気を鼓舞するために朝鮮の虎を狩りましたが、大正時代の我々は日本の版図(領土)内の虎を狩って戻ってまいりました。これには深長な意味があると存じます」
そして当日のメニューは以下の通り、ジビエ主体のフルコースです。
・咸南虎冷肉煮込み トマトケチャップ マリネ
・永興スープ
・釜山鯛洋酒蒸し
・北青岳羊油煎 野菜添え
・高原猪肉ロースト クランベリーソース サラダ
・アイスクリーム、小菓子
・果物、コーヒー
しかし肝心の虎肉は、狩ってから日が経っていたため硬くてボロボロであり、「食えたもんじゃなかった」そうです。
佐竹本三十六歌仙絵巻
この虎狩りで「虎大尽」の異名を奉られた唯三郎ですが、この頃が彼の人生のピークでした。その後も「世界各地で働く日本人に進呈し、気を引き締めてもらう」と称して越中褌(えっちゅうふんどし)1万本を携えて欧米各地を巡ったり、特別列車に東京の芸妓を満載して京都へ繰り出したりして世間の注目を集めます。また函館で100円札の束を燃やしてみせたり、箱根の芸妓を総揚げにして裸で軍隊調の行進をさせたりと、成金らしい奇行で話題(と顰蹙)を提供し続けました。しかし、唯三郎の威勢も第一次世界大戦の終結(戦時バブルの崩壊)とともに、嘘のようにしぼんでいきます。そんな彼が最後に世間を騒がせたのが『佐竹本三十六歌仙絵巻』の買い取りでした。この王朝歌仙絵巻の最高傑作は鎌倉時代の絵師・藤原信実の作で、旧秋田藩主・佐竹家が長年秘蔵してきた“幻の絵巻”です。
明治維新を経て、旧領の山林を政府に献納したことで銘木・秋田杉による利益を失った佐竹家は、伝来の家宝300点を大正6年(1917)11月、東京・両国の東京美術倶楽部でオークションに出品します。その目玉が日本美術の至宝と言われたこの絵巻でしたが、問題はその落札価格でした。当時としては空前の最高値である「35万3000円」。当時の1万円が現在では約1億円ですから、現在の価値に換算すると約35億円余りという、けた外れの金額です。現在は海外で500億円を超える絵画の落札値もありますが、当時としては法外だったのでしょう。
あまりの高値に東京・大阪・京都など、9軒の大手道具商が組んでようやく落札したものの、道具商としては転売先を探さなければなりません。そこへ品物を一瞥しただけで「よし、買おう」と即答した男が現れます。それが唯三郎でした。貯金だけで4000万円(現在で数十〜数百億円規模)を保有していたと言われる船成金絶頂期の唯三郎にとって、35万円は大した金額ではなかったのでしょう。
しかし、絵巻が唯三郎の手元にあったのはわずか2年ほど。大戦終了後の深刻な反動不況により、自慢の「池上御殿(邸宅)」は人手に渡り、絵巻も再び売り立てにかけられます。しかし不況のどん底において、買い手など現れません。「このままでは海外の富豪に買われ、国宝級の至宝が流出してしまう」という危機感を募らせた益田鈍翁が考え出した苦肉の策こそが、絵巻のバラ売りでした。
切り離したことで最高額の「斎宮女御(さいぐうのにょうご)」でも4万円となり、なんとか海外流出は防げたものの、バラバラになった絵巻は二度と元の姿に戻ることはなく、国宝指定の話もなくなりました。
別の一面も
成金らしい行動で世間を騒がせた唯三郎ですが、実は青年時代にキリスト教の洗礼を受けています。新島襄が同志社大学を創設する際には5000円を寄付し、同大学の図書館建設には6万円、さらに工事費が膨らむと追加で2万円を寄付するなど、多大な資金援助を行いました。また、郷里の岡山には「山本養蚕学校」を設立したほか、市立図書館や山陽女学校校舎の建築費も寄付しています。唯三郎は図書館寄贈の際、次のように語っています。
「私が幼い時に嘗めた辛酸は忘れようとしても忘れられない。貧しさ故に学校で学べない者はまだまだ少なくないと思う。しかし教育は一人学校だけに待つべきものではない。故に微力乍らこの図書館を寄贈するものである」
栄枯盛衰の果て、昭和2年(1927)4月17日。かつての狂騒が嘘のように、東京・吉祥寺の自宅にて、ほぼ見守る者もないまま55歳でひっそりと息を引き取りました。
おわりに
豪快かつ破天荒な行動で「成金」と揶揄され続けた唯三郎ですが、自身がそう呼ばれることには反発しています。「”成金”の言葉には冷笑が含まれている。何の勤労も努力もせず成り上がればその通りであろう。しかし勤勉力行せるがゆえに富みを得た者まで玉石混交で冷笑するならば、刻苦奮闘する心まで遅滞せしめるものである」
と。


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