南北朝争乱に振り回され続けた光厳天皇の波乱万丈の生涯
- 2026/09/11
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約700年前の南北朝争乱の時代に、権力争いに振り回され続けてきた天皇がいます。北朝第1代の光厳天皇です。在位3年で皇位を奪われたり、南朝方に捕らわれの身になったりと、波乱万丈だった光厳天皇の生涯を見ていきましょう。
持明院統と大覚寺統とは
光厳天皇に触れる前に、当時の朝廷について解説します。鎌倉時代中期の後嵯峨天皇の後を継いだのは後深草天皇でしたが、父親の後嵯峨上皇から譲位を迫られ、弟の亀山天皇が即位しました。以後、後深草天皇の系統が持明院統、亀山天皇の系統が大覚寺統と呼ばれます。
持明院統と大覚寺統は皇位継承をめぐって対立し、鎌倉幕府の関与によって双方が交互に皇位に就くという両統迭立(りょうとうてつりつ)の状態になりました。
光厳天皇は正和2年(1313)に持明院統の後伏見天皇の子に生まれ、嘉暦元年(1326)に後醍醐天皇(大覚寺統)の皇太子となり、皇位継承の権利を得ました。
後醍醐天皇により廃される
後醍醐天皇は元弘元年(1331)に倒幕計画を企てましたが失敗し、隠岐に流されてしまいます。鎌倉幕府は光厳天皇を即位させましたが、後醍醐天皇は「あくまでも朕(ちん)が天皇である」と主張し続けました。隠岐脱出に成功した後醍醐天皇は、足利尊氏ら多くの武将を味方につけて倒幕へと突き進みます。尊氏らの大軍が京都に攻め込む構えを見せると、六波羅探題は光厳天皇らを連れて京都を離れますが、やがて大軍に囲まれてしまうのです。
六波羅探題の北条氏一族は、光厳天皇の目前で自刃して果てました。一族討ち死にという壮絶な現場を目の当たりにした光厳天皇の心中はいかばかりだったでしょう。
やがて京都に戻ってきた後醍醐天皇によって、光厳天皇は廃されてしまうのです。(以後、光厳上皇と表します)
光厳上皇の院政始まるも
後醍醐天皇の新政は、わずか2年で破綻してしまいます。足利尊氏が反旗を翻したのを機に争乱が勃発したのです。京都を制圧した尊氏は、吉野に逃れた後醍醐天皇に代わり、光厳上皇の弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に任じられました。光厳上皇は院政を開始し、「治天の君」となったのです。
持明院統と大覚寺統は完全に分裂し、両統迭立から南北朝争乱へと移っていきます。北朝の光明天皇の皇太子には光厳上皇の皇子が就き、光明天皇退位後に崇光天皇として即位。光厳上皇は引き続き治天の君で居続けました。
ただ、光厳上皇にとって安寧の時代が訪れたわけではありません。南北朝争乱は、単に皇統が二分されたというだけでなく、将軍家である足利氏の内部抗争まで引き起こし、泥沼の権力争いへと突入していくのです。
捕らわれの身となった上皇
観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれた足利氏の内部抗争の中心にいたのは、将軍の尊氏と弟の直義でした。双方が戦いを有利に進めるため、北朝方、南朝方という敵味方が入り乱れる「何でもあり」の状態だったのです。正平6年(1351)に尊氏が南朝方に降伏して和睦します。その結果、南朝の後村上天皇によって北朝は廃されることになり、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇は捕らわれの身となってしまったのです。
幽閉生活をおくっていた光厳上皇は出家し、禅僧として静かな余生を過ごしました。鎌倉幕府、後醍醐天皇、足利尊氏と、権力者たちに振り回され続けた光厳上皇は、貞治3年(1364)に52歳の生涯を閉じたのです。
おわりに
軍記物語の太平記によると、「光厳上皇の行列に、酔った武将が無礼を働いた」という事件があり、その武将は「院と言ったか、犬と言ったか。犬なら射落としてやる」と言い、矢を放ったそうです。この話は、権威を踏みにじられた光厳上皇の哀しいエピソードとして今に伝わっています。