家康を心服させた「青い目のサムライ」三浦按針——漂着から旗本に上り詰めた栄光と不遇の晩年
- 2026/10/19
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当時、スペイン・ポルトガルとの貿易が縮小する一方、新たに台頭してきたのがオランダとイギリスでした。そうした中、家康の貿易顧問として厚い信頼を寄せられたのが、ウィリアム・アダムス──後の「三浦按針(みうら あんじん)」です。彼は幕府旗本として20年間を日本で過ごし、まさしく武士としてその生涯を全うしました。
按針はどのようにして日本へ到達したのか。そして、なぜ家康の家臣となったのか。「青い目のサムライ」の物語を詳しく紹介したいと思います。
アダムス、豊後へ漂着する
1564年、アダムスはイギリスのジリンガムという町で生まれました。幼少期から造船や航海の経験を積み、24歳の頃にはスペインの無敵艦隊を打ち破った「アルマダの海戦」にも参加しています。やがてバーバリ貿易会社へ入ったアダムスは、「オランダが積極的に東洋への進出を図っている」という情報を耳にしました。当時のヨーロッパにおいて、日本は「金銀が豊富に産出する神秘の国」として認識されていたようです。まだ若いアダムスも心を躍らせ、夢とロマンを追い求めるべく、さっそくオランダの船会社へ転職しました。
そんな矢先、オランダのロッテルダム港では、5隻の船団が編成されています。その背景には東洋への航路探索という目的があり、アダムスはデ・ホーペ号の航海長として乗り組みました。デ・ホーペ号は指揮船ですので、船団全体の航海指揮を任せられたわけです。
しかし、この航海には大きな苦難が付きまといました。多くの船員が壊血病で斃れ、指揮官までが命を落としてしまいます。また、食糧不足から略奪に手を染めたり、ペンギンを捕らえて飢えを繋ぐなど、かろうじて船を進めるのがやっとの有様でした。この間に幹部の人事異動があり、アダムスはデ・リーフデ号へ乗り込むことになります。
1599年8月末、激しい嵐に見舞われた船団は散り散りになります。スペインやポルトガルに拿捕される船、オランダへ引き返す船など、惨憺たる状況に陥りました。さらに残った2隻のうちデ・ホーペ号が沈没し、最終的に日本へと辿り着いたのはデ・リーフデ号ただ1隻でした。
慶長5年(1600)4月19日、豊後(現・大分県)の佐志生という所に漂着したデ・リーフデ号ですが、26人いた船員のうち3人が間もなく息を引き取り、どうにか立ち上がれる者も6人程度に過ぎません。そんな彼らを保護したのが臼杵城主・太田一吉で、1軒の家と必要な食糧を与えたといいます。アダムスは一吉のことを「大いに友好を示した豊後の国王」と評しています。
オランダ船漂着の知らせは大坂城へも届きましたが、豊臣政権の首脳陣は一様に頭を抱えます。なぜならスペイン人たちが「オランダ人はバイキングの末裔であり、世界各地で海賊行為をおこなっている」と告げたからです。
当時、オランダは独立を懸けて宗主国スペインと戦争状態にありました。さらにカトリックのスペインに対し、オランダはプロテスタントであり、宗教的にも信仰の形態が異なっていました。まさしく両者は犬猿の仲だったのでしょう。
豊臣政権が判断に迷う中、「一度、会ってみてはどうか」と声を上げたのが徳川家康でした。そしてアダムスら漂着者の代表が大坂城へと呼び出されることになります。
アダムス、五大老筆頭・徳川家康の信頼を得る
さっそく大坂城へ呼ばれたのが、アダムスと、オランダ人のヤン・ヨーステンです。しかし家康が多忙だったためか、会見はなかなか実現せず、彼らは40日間も牢へ放り込まれることになりました。その後、牢から出された2人は、ようやく家康と対面しています。家康の問いに対し、アダムスはよどみなく答えます。
この時点でデ・リーフデ号の積み荷の多くは盗難に遭っていました。しかし家康は「盗まれたのは日本国内だから、損失代金を補填しよう」と申し出たそうです。この家康の寛容な態度には、アダムスたちも驚きを禁じ得ませんでした。
さらに家康は重ねて問いかけました。
アダムスはきっぱりと否定します。
ここで初めて家康は、彼らがプロテスタントだという事実を知り、オランダは目的はキリスト教の布教ではなく、貿易であることを理解したのです。
おそらくオランダ語の通訳もおらず、意思疎通には大きな困難があったはずです。それでも真摯に語るアダムスの態度に、家康は強い信頼を抱いたのでしょう。幕府を開いた後、家康は二人を江戸へ呼び寄せ、貿易関連のブレーンとして重用しました。
また、アダムスは幾何学や天文学といった西洋の先端知識を伝え、家康のどんな質問であろうが的確に答えたといいます。やがて外交交渉や通訳という重責を担うだけでなく、二度にわたり大型帆船の建造を成功させます。
その才を高く評価した家康は、アダムスの帰国を許さない代わりに、250石の旗本へと取り立てました。日本人女性を妻に娶り、「三浦按針」と名乗ったアダムスは、こうしてヨーロッパ人初の「武士」となったのです。
国際貿易港になれなかった浦賀
家康はかねてから、江戸に近い浦賀(神奈川県)を貿易港にしたい考えがあったようです。当時は浦賀が唯一の対スペイン貿易の拠点となっていたのです。そして慶長14年(1609)、デ・リーフデ号以来となるオランダ船が、肥前の平戸(長崎県)へ来航しています。按針の紹介によって、家康とオランダ船の代表が会うことになりました。
会見で家康は商館の開設を許可しますが、焦点となったのはその設置場所です。家康は前々から考えていた浦賀を勧めるのですが、オランダ側は「我々が初めて寄港した平戸が良い」の一点張りで譲らず、議論は平行線をたどるばかりでした。
頑固なオランダ人の態度に、家康もやや不機嫌となります。そこで按針に尋ねました。
すると按針は、このように答えたそうです。
それを聞いた家康は笑い飛ばしたといいます。
そして家康は「平戸も日本の内である」と述べて、改めて平戸へ商館を設置することを許しました。
それから4年後、今度はリチャード・セーリスの率いるイギリス使節団が来日しています。彼らは国王の親書を携えており、やはり日本との貿易を目的としていました。按針は直ちに平戸へ急行し、セーリスに次のように懇願しています。
しかし2人はウマが合わなかったのでしょう。セーリスは終始不機嫌なまま、按針をなじりました。
さらにセーリスは家康に対して、こんなことを言い出します。
ここで家康は、浦賀への商館誘致が立て続けに失敗した以上、按針をお払い箱にしようと考えたのかも知れません。こうして按針はブレーンから外され、平戸へ移ることになりました。
平戸で寂しい晩年を過ごした按針
元和2年(1616)、按針を引き立ててくれた家康が亡くなりました。さらに幕府が貿易港を、平戸と長崎に制限する方向へ舵を切ったことで、もはや按針の役割は事実上失われました。現将軍・徳川秀忠への拝謁も叶わず、祖国への帰国も果たせぬまま、按針は不遇の晩年を過ごさざるを得なかったようです。元和6年(1620)5月、死期を悟った按針は、イギリス商館長のコックスと商館員のイートンを呼び寄せ、遺言執行人になってくれるよう依頼しました。
形見分けとして、コックスには立派な刀や地球儀、海図などを贈り、さらにイートンには書物や航海道具を贈呈しています。その他の商館員にも最上等の着物を遺しました。コックスに贈った以外の刀剣類については、息子のジョセフが継承するよう言い遺しています。
また、長年仕えてくれた日本人使用人への配慮も忘れていません。下男のアンソニーには自由を与えた上で新生活のための資金を贈り、下女のジュガスにも上等な着物や金銭を分け与えたといいます。
按針の死後、その遺産は不動産だけで500ポンド(現在の価値で数千万円相当)もあったといい、その一部はイギリスに残してきた家族のもとへ送られました。
なお、日本人妻や、息子ジョセフ、娘のスザンナについて、その後の動向は詳しくわかっていません。ただ、ジョセフに関しては、幕府から跡目相続を認められており、その生涯の大半を相模の逸見で過ごしたそうです。彼は航海士になる訓練を受け、2度にわたって中国方面へ航海したことがわかっています。
寛永11年(1634)に妻が没した際、遺体は領地の逸見村に埋葬されました。また、現在の神奈川県横須賀市にある「按針塚」と呼ばれる供養塔は、平戸から按針の遺骨が改葬されたと伝わります。一方、長崎県平戸市の「伝・三浦按針墓」では、平成29年(2017)に発掘調査が行われ、熟年男性と思しき人骨が検出されました。
DNA分析(ミトコンドリアの解析)の結果、ハプログループ「H1e2b」を示すことから、被葬者はヨーロッパ人であることが判明しています。とはいえ、按針の墓と伝わるのみで伝承の域を出ない部分があるため、これが按針本人の遺骨であると断定するには至っていません。
終わりに
江戸時代、日本はオランダと貿易を通じて国交を保ってきました。また長崎を通じて、進んだ学問や最先端技術、医療知識などを享受した結果、日本は鎖国下にもかかわらず、外圧に屈しない知的基盤を築いています。そのきっかけを作ったのが、ウィリアム・アダムスこと三浦按針だと考えれば、何だか感慨深いものがありますね。もし彼が日本へ漂着しなければ、ひょっとするとオランダとの友好関係はなかったのかも知れません。




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