教科書が教えないキリスト教伝来──ザビエルの後を託された「トーレス」とは何者か?

  • 2026/09/30
コスメ・デ・トーレス
コスメ・デ・トーレス
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 日本にキリスト教をもたらした人物と言えば、フランシスコ・ザビエルが有名ですよね。しかしザビエルが日本に滞在していた期間は、実は天文18~20年(1549~51)の2年間だけでした。キリスト教が日本の地に根づいていくまでには、残された者たちの並々ならぬ努力があったのは言うまでもありません。

 今回はザビエルの意志を受け継いだコスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres)を紹介したいと思います。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

運命の出会い──モルッカ諸島から始まったザビエルとの絆

 トーレス(トルレス)は西暦1510年、スペインのバレンシア地方で誕生しました。

 家族や出自など素性についての詳しい記録は残っていません。しかし若くして司祭となっていることから、信仰心に厚く、相応の知性と教養を備えていたことは確かでしょう。 司祭となったトーレスは大西洋を渡ってメキシコで奉職し、やがてビリャロボス艦隊に同行してモルッカ諸島(現代のインドネシア)へ赴任します。そして西暦1546年、トーレスはザビエルと運命的な出会いを果たすのでした。

 トーレスはザビエルに心酔し、そのままインドのゴアへと渡ります。モルッカ諸島での仕事をあっさり辞めてしまったようにも見えますが、それほどザビエルのカリスマ性に惹きつけられたのでしょう。そしてゴアでイエズス会に入り、ザビエルの弟子となりました。ここで同門の日本人ヤジロウ(弥次郎)とも出会い、日本での布教に意欲を燃やします。

 やがて願いが通じたのか、トーレスたちは西暦1549年(天文18年)8月15日に薩摩国鹿児島へ上陸。これが語呂合わせでおなじみ「以後よく(1549)広まるキリスト教伝来」ですね。現地で日本人と交流したトーレスたちは、日本人の純朴な気質から、布教成功の可能性に胸を熱くしました。

 その後、一行は肥前国平戸へ向かい、領主・松浦氏の庇護を取りつけることに成功します。ザビエルたちはさらなる布教を求めて京都を目指しますが、せっかく平戸にできた拠点を手放したくありません。そこでトーレスが平戸に残り、現地での布教活動を継続することになりました。よほどザビエルから信頼されていたのでしょうね。

 そして西暦1551年(天文20年)にザビエルが日本を離れて再びインドへ渡ると、トーレスは日本における布教の責任者に指名されました。

 自分の後を託すに足りる人材と見込まれての指名でしょうが、ザビエルが思いのほか布教の手応えをつかめなかったため、トーレスへ丸投げしたように見えなくもありませんね。もちろんザビエルのインド再航は当人の気まぐれではなく、イエズス会的な事情もあったことでしょう。ともあれトーレスは、ザビエルの後継者として日本での布教活動を担っていくことになります。

和服を着て肉食をやめた?日本人の心を掴んだ「適応主義」

 日本に残されたトーレスは、琵琶法師の了斎(りょうさい。受洗後はロレンソ了斎)らの協力を得ながら、着実に信者を獲得していきます。

 元琵琶法師であるロレンソ了斎の語りは実に見事なもので、人々の心をデウスの教えへと魅了していきました。そうした技巧に加えて、トーレスの心がけた適応主義(インカルチュレーション)が効果を発揮したそうです。

「日本人は温厚だが誇り高く、自分たちの文化を大切にしている。彼らの文化を尊重する姿勢を見せなければ、決して心服することはないだろう」

「我々の文化で圧倒するよりも、我々が彼らの文化に適応する姿勢こそが布教の成功には不可欠である」

 これまで彼らは「未開の蛮族」に対して「崇高な教えと優れた文化を授けてやる」という、上から目線の態度で臨んできました。しかしそれでは日本にキリスト教は広まらないとトーレスは見抜いたのです。

 そこでトーレスたちは仏教の戒律にならって肉食をやめ、日本の食事に慣れ親しみ、和服を着るなど、日本式の生活スタイルを心がけました。真心を示すには、まず形から——。トーレスたちの誠実な努力は徐々に実を結び、戦乱の世に翻弄されながらも、肥前・豊後・山口など各地でキリスト教徒の裾野が広がっていきます。

 もちろんすべて順風満帆だったわけではなく、経済的な困窮や周囲からの差別や迫害、仏教徒からの法論(宗教論争)など様々な試練もありました。それでも使命を果たすため、トーレスは精力的に布教を続け、後進の育成に努めるなど邁進したということです。

南蛮貿易と長崎開港——「継続は力なり」が開かせた花

 古来「継続は力なり」とはよく言ったもので、布教を続けるトーレスの元には、志を同じくする仲間たちが集まってきました。

 西暦1556年(弘治2年)には、商人のルイス・デ・アルメイダがイエズス会に入り、後に宣教師となって活躍します。西暦1559年(永禄2年)には、ザビエルの悲願であった京都での布教を実現するため、ガスパル・ヴィレラ神父らを派遣しました。その努力が実り、京都での布教の道が開かれます。さらには西暦1563年(永禄6年)には、肥前の大名・大村純忠(おおむら すみただ)が受洗し、日本初の「キリシタン大名」が誕生しています。

 そしてトーレスは、キリスト教を広める(実態は植民地化を進める)上で大きな武器であった交易(南蛮貿易)の実現に向けても尽力します。西暦1562年(永禄5年)に横瀬浦(長崎県西海市)を開港させ、続く西暦1570年(元亀元年)には長崎港を開くことに成功しました。

 こうして日本の布教基盤をゼロから築き上げてきたトーレスですが、還暦を過ぎる頃には長年の心労と体力の限界を感じずにはいられません。そこでインドのイエズス会本部に対して後継者の派遣を要請。西暦1570年(元亀元年)6月に後任のフランシスコ・カブラル神父が日本へ到着しました。

 カブラルの到着に安堵したのか、トーレスは同年10月2日(元亀元年9月3日)、61歳で世を去ったということです。

終わりに

 今回は、ザビエルの後継者として日本にキリスト教を広めたコスメ・デ・トーレスについて、その生涯をたどってきました。

 ほぼゼロの状態から始まり、京都・堺・山口・九州など各地にキリシタンの地盤を築き上げた情熱は、実に見事なものです。もちろんその活躍は彼一人に帰するものではなく、多くの仲間たちに助けられて成し得たことでしょう。

 他の宣教師や協力者たちについても、機会があればその活躍を紹介していきたいと思います。

【参考文献】
  • ディエゴ・パチェコ著、佐久間正(訳)『長崎を開いた人 コスメ・デ・トーレスの生涯』(中央出版社 1969年)
  • 松田毅一『南蛮史料の発見 よみがえる信長時代』(中央公論社 1964年)
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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