【豊臣兄弟!】七本槍で唯一大名になれず…平野長泰の生涯と幕末の悲願

  • 2026/08/04
平野長康を描いた武者絵(『太平記英勇伝』より。出典:東京都立図書館 TOKYOアーカイブ)
平野長康を描いた武者絵(『太平記英勇伝』より。出典:東京都立図書館 TOKYOアーカイブ)
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 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第18回放送「羽柴兄弟!」で初登場した平野長泰(ひらの ながやす。演:西山潤)。正直まだ片桐且元(演:長友郁真)との見分けがついていませんが、今後個性を発揮してくれることでしょう。

 今回は豊臣兄弟の家臣として大活躍した平野長泰の生涯をたどってみたいと思います。『豊臣兄弟!』を楽しむ参考になれば嬉しいです。

賤ヶ岳の七本槍に

 平野長泰は永禄2年(1559)に平野長治(ながはる)の子として誕生しました。母親は堀田道悦女(ほった どうえつ娘)と伝わります。

 平野家は桓武平氏の流れをくむ北条氏の庶流のさらに分家……という、真偽定かならぬ家柄で、尾張国中島郡平野村(愛知県稲沢市)を領したことから平野を苗字としました。やがて元服して通称を平野権平(ごんぺい)と名乗り、はじめは諱を平野長勝と称します。

 秀吉に仕えたのは21歳となった天正7年(1579)、父の伝手でそのまま羽柴家臣団に加わりました。大河ドラマでは一般公募から試験を受けたように描写されていましたが、実は親のコネで仕官したようです。

 ともあれ長泰の武名が知られるようになったのは天正11年(1583)4月、織田政権における主導権をめぐって対立していた羽柴秀吉と柴田勝家(演:山口馬木也)が賤ヶ岳の合戦で雌雄を決した時でした。長泰は加藤清正(演:伊東絃)や福島正則(演:松崎優輝)、片桐且元らと共に一番槍の武功を立て、秀吉が彼ら7名を「七本槍」としきりに喧伝したのです。

【七本槍】
  • 糟屋武則(かすや たけのり。18歳)
  • 片桐且元(当時28歳)
  • 加藤清正(当時18歳)
  • 加藤嘉明(よしあき。当時17歳)
  • 平野長泰(当時25歳)
  • 福島正則(当時19歳)
  • 脇坂安治(わきざか やすはる。当時30歳)

 彼らは後世「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれたものの、福島正則は「脇坂などと同列に評されるのは迷惑だ」と憤り、清正も七本槍と持ち上げられるのを嫌がったと言います。

 また『一柳家記』などによると、賤ヶ岳の合戦における一番槍は他にも多数おり、秀吉は語呂のよさからお気に入り7名をピックアップしたのかも知れません。

  • 石川一光(兵助)
  • 石田三成
  • 稲葉清六
  • 大島光政(茂兵衛)
  • 大谷吉継
  • 奥村半平
  • 桜井家一(佐吉。いえかず)
  • 一柳次郎兵衛(ひとつやなぎ じろべえ)
  • 一柳直盛(四郎右衛門)
  • 福島長則(与吉郎。正則の弟)

 文弱で戦下手なイメージの強い石田三成(演:松本怜生)も、ここでは最前線で槍を奮う若武者でした。果たして大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

豊臣家の滅亡を見守る

 賤ヶ岳の合戦で武功を立てた長泰は、秀吉からの感状と河内国の知行3千石を与えられました。

 続く天正12年(1584)には秀吉と徳川家康(演:松下洸平)が対決した小牧・長久手の合戦において、敗走する中でも敢闘して敵の首級を挙げ、また二重堀砦の合戦でも奮戦します。

 その後しばらく目覚ましい戦功はなかったものの、文禄4年(1595)になって知行2千石を加増されました。賤ヶ岳における武功が再評価されたそうですが、もう12年も経っており、本当のところはよくわかりません。

 慶長3年(1597)に豊臣姓を賜わり、また従五位下(じゅごいのげ)・遠江守(とおとうみのかみ)に叙任されました。翌慶長4年(1598)に秀吉が没すると、豊臣政権内で石田三成ら文治派と対立し、徳川家康を支持するようになります。

 慶長5年(1600)に家康が会津の上杉景勝(謙信養子)を討伐するため、兵を挙げるとこれに従い、上方で三成らが兵を興すと軍勢を反転しました。

 家康は全軍を嫡男の徳川秀忠と二分して進撃し、長泰は秀忠の指揮下に配属されます。ここで武功を立てようと意気込んでいたでしょうが、秀忠は信州上田城で真田昌幸の足止めを食らい、関ヶ原の決戦に間に合いませんでした。

 武功を立て損ねた長泰は、その後も秀忠に仕えるようになります。その一方で豊臣家にも忠義を尽くすため、嫡男の平野長勝(権平)を豊臣秀頼(秀吉遺児)に奉公させていました。

 そのまましばらく月日は流れ、次第に徳川家と豊臣家の関係が険悪になり、ついには決戦が避けられなくなってしまいます。

 慶長19年(1614)に家康が豊臣討伐の兵を興すと、長泰は「こんなはずじゃなかった」と慌てふためいたことでしょう。

 自分が徳川殿に仕えてきたのは、あくまで豊臣家をお支えするため。豊臣家に弓を引くことはできぬゆえ、どうか大坂城に入らせていただきたい。あるいはせめて、我が子だけでも救出させていただきたい……しかしその願いは赦されず、江戸留守居役を命じられてしまいました。

 結局長勝は助かったものの、長泰は自分が忠義を尽くした豊臣家の滅亡を、ただ見守るしかできなかったのです。「もし秀吉の死後、三成たちと一致団結していれば……」そんなことを思ったのでしょうか。

大名にはなれなかったが……

 豊臣家の滅亡を見届けた長泰は秀忠の側近となり、寛永5年(1628)5月7日に70歳で世を去りました。

 かつて「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた中で唯一、大名(知行1万石以上)となれなかった長泰ですが、それでも武士の矜持を失うことはなかったようです。

『葉隠聞書』には、こんな痛快エピソードがありました。

七三 平野権平殿は、賤ケ嶽先登七本鎗の内なり。後に家康公御旗本に召しなされ候。或時、細川殿へ振舞に参られ候。御亭主御申し候は、「権平殿の武篇は日本に隠れもなき事にて候。斯様の大勇士を唯今の通りの小身にて召し置かれ候儀、残念にて候。さこそ御不如意にこれあるべく候。我等家中になど御成り候はゞ、領知半分は遣し申すべき」由御申し候。権平殿兎角の返事なく、不図座を立ち縁に出で、正面に立ちはだかり、小便を致しながら申され候は、「御手前の家中になりては、爰から小便する事がならぬ。」と申され候由。
※『葉隠』巻十より。

 ごくざっくり言えば、細川忠興が「平野殿ほどの大勇士がたった5千石とは気の毒だ。わしに仕えるなら、所領の半分は差し上げよう」と持ちかけたのに対し、長泰が庭に小便をしながら「お断りだ。そなたに仕えたら細川家の庭で小便もできんからな」と言い放ったのです。

 忠興は20万石(当時)、いっぽう長泰はずっと5千石。それでも共に家康に臣従している同輩であり、石高の多寡で見くびられる筋合いはありません。そんな豪気な性格が、大河ドラマでも描かれるでしょうか。

大名となった長泰の子孫

 長泰の死後、その家督は脈々と受け継がれ、ついに子孫の平野長裕(ながひろ)が大名となりました。時は慶応4年(1868)7月14日、新政府の計らいによって所領が1万石に見直しされたのです。

 これが後世に伝わる田原本藩(たわらもとはん。奈良県田原本町)で、平野家も晴れて大名の仲間入り……明治2年(1869)に藩知事となったものの、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県で免官されてしまいます。ちょうど3年間という短い大名でした。

※参考:平野氏略系図
……平野萬久(ばんきゅう/かずひさ)=平野長治(船橋枝賢/しげかた)-平野長泰=平野長重(弟)-平野長勝=平野長政(七沢清宗子)-平野長英(ながふさ)=平野長暁(ながあき)=平野長里-平野長純-平野長興-平野長発(ながゆき)-平野長裕(田原本藩主初代)-平野長祥(ながよし。男爵)-平野長克(ながかつ。男爵)……

※諸説あり
※系図中の「ー」は実子、「=」は養子による継承を表します。

 今回は賤ヶ岳の七本槍として活躍した平野長泰について、その生涯をたどってきました。果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではどのような活躍が描かれるのか、楽しみに見守りましょう!

【参考文献】
  • 桑田忠親『太閤家臣団』(新人物往来社 1971年)
  • 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』(吉川弘文館 1981年)
  • 戦国人名辞典編纂委員会編『戦国人名辞典』(吉川弘文館 2005年)
  • 和辻哲郎・ 古川哲史(校訂)『葉隠 下』(岩波書店 2011年)
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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