「囲碁が出来ないなら死んでしまう」大久保利通は筋金入りの囲碁好きだった?
- 2026/10/08
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維新の三傑・大久保利通。彼の知られざる趣味、それは「囲碁」でした。多忙を極める身でありながら熱中しすぎて、周囲から本気で心配されるレベルです。
また、かつては「島津久光に取り入るために囲碁を習った」と言われていた大久保ですが、現在ではその説は否定されています。
いったいなぜその説は覆ったのか。そして、生涯変わらぬ趣味として囲碁を愛した大久保にとって、このゲームはどのような存在だったのか。その素顔に迫ってみましょう。
また、かつては「島津久光に取り入るために囲碁を習った」と言われていた大久保ですが、現在ではその説は否定されています。
いったいなぜその説は覆ったのか。そして、生涯変わらぬ趣味として囲碁を愛した大久保にとって、このゲームはどのような存在だったのか。その素顔に迫ってみましょう。
島津久光に近づくためだった?
以前は、「大久保は島津斉彬の異母弟で新藩主の父である島津久光に近づいて藩政を動かすため、わざわざ囲碁を習い、囲碁を通じて久光に取り入った」などと言われていました。しかし、日記を読むと囲碁は十代からの趣味だったようです。さらに、大久保が囲碁を習ったとされている吉祥院(大久保の親友・税所篤の兄)の後年の手記にも、大久保に囲碁を教えたとはっきり分かるような記述はありません。
大久保家と税所家は父の代から家族ぐるみのつきあいであり、囲碁の達人と言われた吉祥院が時々久光の囲碁の相手を務めていたことも、大久保は当然把握していたことでしょう。
その吉祥院が精忠組について久光に語り、吉祥院を通じて大久保の建白書が何度か久光に渡されたり、久光が読みたがっていた本を差し入れるという間接的な交流が、大久保が実質的なリーダーだった精忠組が活躍するきっかけとなりました。
こうした事情から考えると、大久保は訪問のついでに吉祥院と碁盤を囲んでおり、それが後世に「習う」という表現に変わっていったと考えられます。そうして囲碁の腕を上げた大久保が、久光の側近となってから囲碁の相手もするようになったのでしょう。
久光はこう言っていたそうです。
「大久保と打つのが一番面白い、お世辞まけをせぬから面白い」
「碁ができないなら死んでしまう」
大久保の次男・牧野伸顕が、『回顧録』の中で父の囲碁好きについて語っています。大久保があまりにも囲碁好きなので、身体に障るのではと周囲が心配し、碁をやめさせようと画策しました。ある日、同志を代表して松方正義(のちに2度総理大臣を務める薩摩閥の重鎮)が大久保に注意したそうです。
すると大久保はこう答えました。
「私に碁をやめろと言うのですか。私は碁が出来なければ死んでしまいます」
こうしてあっさり計画は挫折となりました。もちろん、「死んでしまう」は冗談です。おそらく大久保は、内心ニンマリしながら真顔で答えたことでしょう。いい年をした薩摩の男たちが「誰が言いに行くか」で揉めたあげく、意を決した松方がすごすごと引き下がってきた様子を想像すると、なんとも面白いエピソードです。
実際、どれほど好きだったのか?
周囲が心配して囲碁をやめさせようとするほどとは、大久保はいったいどれほど囲碁が好きだったのでしょうか。試しに明治8年(1875)6〜7月の日記を見てみると、6月に10回、7月に9回、「囲碁」という単語が出てきます。約3日に1回となかなかの頻度ですが、はっきり書いていない日でも、来客と碁盤を囲んだ日は当然あったはずです。
3日連続で打つこともあれば、なんと7月3日に内務省が火事で全焼し、徹夜した翌4日にも囲碁に興じています。徹夜明けで11時まで内務省にいて、その後太政官に行き午後3時に仕事を終えると、五代友厚邸で友人達と囲碁。すごいバイタリティですね。
郵便制度の父として知られる前島密は、大久保を訪ねた際、他の客と対局していて長く待たされ、思わずチクリと苦言を呈しました。すると大久保はこう言い返したといいます。
「お前は俺の延命の仙術を乱すのか、この対局の時間こそ日常の煩わしさを忘れられるんだ、邪魔するな」
なぜ、そこまで囲碁を好んだのか?
これは推測ですが、熟考型の大久保には、一手一手じっくり考えて打つ囲碁が性格的に合っていたのではないでしょうか。それに加え、先ほどの前島の証言にあるように、まさに「命の洗濯」となる最高の気分転換だったのでしょう。また、対局にはそれなりに時間がかかり、その間に自然と会話も生まれます。口数が少なく、かつ話しづらい人と思われていることを気にしていた大久保は、碁盤を囲みながらならぽつぽつ話しても間が持つし、相手もリラックスして話してくれることを期待したのかもしれません。つまり、囲碁をコミュニケーションの手段にしていたわけです。
そういう意味で、大久保は趣味もしっかり仕事に生かしていました。一貫して組織の中で出世して権力者となった大久保だからこそ、人の和を大事にする調整型の政治家として、普段から人と交流しておくことでスムーズに仕事を進められることをよく理解していました。
そのため、親しい友人達と碁会を開くだけでなく、部下などを誘ったりして、囲碁を通じてさまざまな人と交流を持とうとしたのです。
大久保の囲碁の腕前は?
では、そんな大久保の囲碁の実力は、どれほどのものだったのでしょうか。大久保は当時からプロ棋士たちとも交流があり、初段ぐらいだというタカという女流棋士を連れていたり、囲碁の家元・本因坊秀栄がまだ四段の頃に相手をしていたそうですから、段位を取れるほどの実力はあったかも知れません。
本因坊によれば、「大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手元の乱れたことはなかった」(『甲東逸話』)そうですが、西南戦争の時には心配からか少し碁が乱れたという証言もあります。
一方、前島密の妻は、大久保と前島が対局して盛り上がってくると、罵声が飛び交い、ついには碁盤を蹴り石を投げつけ、取っ組み合いになるのが毎度のことだった、と語っていたそうです。
あの謹厳実直と言われた大久保からは、とても想像できませんね。これが本当なら、さすがの大久保も好きな囲碁のこととなると見境がなくなり、とても人間くさいなと思いますが、真相は闇の中です。
おわりに
大久保は囲碁をこよなく愛し、日々の息抜きにする一方、仕事上のコミュニケーション手段としても活用していました。今も昔も、趣味が人の支えとなり、生活を彩り、人同士を繋げるのは変わらないようです。また、大久保がこれほどまでに仕事にも趣味にも打ちこむバイタリティあふれる人物だったからこそ、新国家建設にも多大な貢献ができたのではないでしょうか。



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