秀吉の都合で即離縁…養子・池田長吉が「建築の才能」で勝ち取った鳥取藩6万石

  • 2026/08/28
鳥取城跡
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 秀吉は子宝に恵まれず、多くの養子を迎えました。確認できるだけでも男子7人、女子11人、猶子5人で合計23人(諸説あり)。政略的事情もあったのでしょうが、それにしても異常な多さです。

 今回はそんな秀吉が迎えた養子の一人・池田長吉(いけだ ながよし。羽柴藤三郎)を紹介したいと思います。果たしてどんな活躍をしたのでしょうか。

※池田長吉を猶子(ゆうし。相続権のない養子)とする説もあります。

利用価値がなくなればポイ

 池田長吉は元亀元年(1570)に織田信長の乳兄弟である池田恒興とその正室・善応院(荒尾善次の娘)の間に生まれました。

 幼名は不詳、12歳となった天正9年(1581)に羽柴秀吉の養子となり、元服して「羽柴藤三郎長吉(とうざぶろう ながよし)」と改名します。「藤三郎」とは、秀吉(藤吉郎)から”藤”の字、恒興(勝三郎)から”三郎”を合わせたもので、諱は主君である信長の”長”と、秀吉の”吉”を合わせたものでした。

 羽柴家の沢潟(おもだか)紋も授かり、長吉は羽柴家と池田家の末永い友好の橋渡しになるかと思いきや、その地位は長く続かなかったようです。天正10年(1582)に本能寺の変で信長が横死を遂げ、天正12年(1584)に父・恒興と兄の池田元助(もとすけ)が小牧・長久手の合戦で討死すると、長吉の状況は一変しました。

 秀吉にしてみれば、長吉は最高権力者であった信長の乳兄弟である恒興との関係を取り結ぶためのコマに過ぎません。それが信長も恒興もいなくなり、また嫡男の元助もいなくなった今、没落した池田家との関係維持には何のメリットもないのです。

 利用価値がなくなった長吉をいつまでも養子にしておく必要はないとばかり、秀吉はあっさりと長吉を離縁してしまいました。そのため、同じ養子または猶子である宇喜多秀家(宇喜多直家の遺児)や結城秀康(徳川家康の子)らに比べて、待遇に格差をつけられてしまったようです。

 例えば天正13年(1585)に長吉は従五位下・備中守に叙せられていますが、秀家や秀康らは侍従≒公卿の高位につけられていました。 また、正室に伊木忠次(いぎ ただつぐ)の娘を迎えていますが、伊木家は池田家の家老格です。もし秀吉の養子身分を維持していたなら、秀吉はもっと家格の高い女性と結婚させていたことでしょう。

 秀吉から離縁された長吉は、秀吉が世を去るまで羽柴家臣として仕えますが、しばらく羽柴姓は名乗り続けたようです。池田姓に戻したのは秀吉死後のことでした。

建築分野に才能を発揮する

 かくして秀吉の都合に振り回された長吉ですが、武将としては文武両道にわたる活躍を見せていました。

 武の方面では父と兄を喪った小牧・長久手の合戦で初陣を飾り、敗れたとはいえ、手傷を負うほどの奮戦ぶりだったと言います。天正15年(1587)の九州征伐や天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍し、後備や本陣警護などを務めました。

 また、文禄元年(1592)では第一次朝鮮征伐(文禄の役)に参陣し、舟奉行を務めた功績により秀吉から名馬「大般若」を与えられています。秀吉の没後は徳川家康に従い、慶長5年(1600)の会津征伐、そして関ヶ原の合戦に従軍。次兄の池田輝政(てるまさ)と共に先手衆に加えられ、岐阜城攻めや水口岡山城攻めで武功を立てています。

 一方、文の方面では、天正14年(1586)や文禄3年(1594)に京都方広寺の造営に加わり、また伏見城の普請にも尽力していました。

 慶長7年(1602)に鳥取城へ移封されたのは、関ヶ原合戦に伴い、焼き払われてしまった鳥取城下復興のためだったといいます。つまりこの時点で、建築分野における才能が高く評価されていたのでしょう。

 また、慶長8年(1603)には再び伏見城の普請、慶長11年(1606)には江戸城の石垣普請、そして慶長15年(1610)には丹波亀山城の普請に尽力しました。江戸城普請では褒美として備前三郎国宗の脇差を賜わり、また丹波亀山城の普請では築城の名手として知られる藤堂高虎と一緒に仕事をしています。互いのキャリアを共有し、切磋琢磨していたのかもしれませんね。

池田長吉・略年表

  • 元亀元年(1570) 誕生(1歳)
  • 天正9年(1581) 秀吉の養子となる(12歳)
  • 天正10年(1582) 本能寺の変で信長が横死(13歳)
  • 天正12年(1584) 小牧・長久手の合戦で初陣、父と兄が討死(15歳)
    ※これから間もなく秀吉から離縁される
  • 天正13年(1585) 1万石を与えられる(16歳)
  • 天正14年(1586) 京都方広寺の造営に加わる(17歳)
  • 天正15年(1587) 九州征伐に従軍する(18歳)
    ※同年に嫡男の池田長幸が誕生
  • 天正18年(1590) 小田原征伐に従軍、秀吉が天下一統(21歳)
  • 文禄元年(1592) 文禄の役に従軍する(23歳)
  • 文禄3年(1594) 京都方広寺の造営奉行や伏見城の普請に加わる(25歳)
  • 慶長3年(1598) 秀吉が世を去る(29歳)
  • 慶長5年(1600) 会津征伐・関ヶ原の合戦に従軍(31歳)
  • 慶長7年(1602) 鳥取藩主として6万石を与えられる(33歳)
    ※このころに羽柴姓から池田姓へ戻す
  • 慶長8年(1603) 伏見城・江戸城の普請に参加する(34歳)
  • 慶長15年(1610) 丹波亀山城の普請に参加する(41歳)
  • 慶長19年(1614) 9月24日に死去する(45歳)

終わりに

 今回は秀吉の政略によって養子となったものの、あっさりと離縁されてしまった池田長吉の生涯をたどってきました。まったくいいように振り回されてしまいましたが、文武両道に才能を発揮してその家名を後世へ受け継いでいます。

 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではまだ登場していませんが、もしかしたら(ほぼモブキャラ扱いでも)登場のチャンスがあるかもしれませんね。秀吉の養子・猶子たちは他にも個性的な人物が多いため、また改めて紹介できたら嬉しいです。

【参考文献】
  • 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』(吉川弘文館 1981年)
  • 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(KADOKAWA 2019年)
  • 阿部猛・西村圭子(編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社 1990年)
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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MasN
角田様
池田長吉公の記事をありがとうございます。
NHKのファミリーヒストリーに影響されて、自分の先祖について調べる事を老後の楽しみにしている還暦男です。
長吉公の子孫は大名としては孫の長常公の時に断絶してしまいましたが、長常公の弟の長信公が特別に認められて旗本として存続し、その末裔に私がいることが分かりました。
もっとも、江戸時代末期に女系となりましたので、池田家直系の子孫ということにはなりませんが、ご先祖の存在が身近に触れることができる記事に感動を覚えました。
長吉公の血筋は、長信公の家督相続が認められたお陰で池田家の中でも他家へ養子に出ながらでも明治に至るまで男系の血筋を維持された家系のようで、何代か前の祖母の兄弟にはイケメンで遣欧使節団の団長の池田長発公もおられます。
今まで華やかな大名家の影に隠れた分家の歴史人についてもスポットライトが当たればいいなと思います。
今後も角田様の記事を楽しみに拝見するとともに、益々のご活躍をお祈りしております。
2026/09/11 19:28