【豊臣兄弟!】豊臣秀吉は弟・秀長になぜ大和国を与えたのか?
- 2026/09/28
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第37回は「秀長の国」。
天正13年(1585)8月、「四国征伐」(長宗我部元親征伐)の総大将であった羽柴秀長(秀吉の弟)は、大軍をもってして長宗我部方を降します。同年閏8月、秀長は四国征伐の論功行賞として大和国を拝領しました。それまで大和は筒井定次の領国でしたが、定次は伊賀国に転封となり、その後に秀長が入国するのです。
筒井氏が居城としていたのが、郡山城であり、同城に秀長も入城することになります。それまで秀長は紀伊国の和歌山城を本拠にしていました。秀吉は長宗我部氏討伐に出陣しなかった代わりに、敵対していた越中国の佐々成政を降伏に追い込んでいます(8月下旬)。北国を制圧した秀吉は畿内近国の大名の領国や所領の配置換えを行なっていますが、秀長の大和入国もその一環でした。
前述の筒井定次は有名な筒井順慶の甥であり、養子でした。天正12年(1584)に順慶が病死したことから家督を継承していましたが、秀吉としては大坂の東方に外様の武将(定次)がいては心許ないとの考えがあったのでしょう。そこで信頼する弟の秀長を大和国に配置したのです(ちなみに伊賀に移った定次はその後、秀長の与力となっています)。
また大和国は宗教勢力、特に興福寺の力が根強く、一国を治め得るような統治権力は存在していませんでした。小規模な国衆が乱立するような状態だったのです。そうした状態の大和国を大名の統治下に編成し、大名が直接、村落支配を行う新たな国造りを秀長はある意味、秀吉から任されたのです。興福寺の僧徒出身の筒井氏にはそれは不可能と秀吉は踏んだのでしょう。逆に言えば、秀長なら出来る。大和を与えたことは秀吉の秀長への信頼の証であると言えます。




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