【ブラッサム】「もういっぺん父の娘に生まれたい」なぜ宇野千代は暴君の父を拒絶しなかったのか

  • 2026/10/13
宇野千代生家(山口県岩国市川西)
宇野千代生家(山口県岩国市川西)
  • ※本記事は一部にプロモーションを含みます
 朝ドラ『ブラッサム』の主人公モデル・宇野千代。その華やかな人生の裏には、奇人とも狂人とも評された父・俊次の強烈な存在がありました。裸足で雪道を歩かせるスパルタ教育、家族を寄せつけない絶対者としての姿、そして娘を誇らしげに連れ歩く意外な一面。

 まるで暴君と家来のような親子関係だったにもかかわらず、宇野千代は、父の死から数十年を経てなお、「もう一度子ども時代をやり直すなら、また同じ父に育てられたい」と断言しています。

 そして、厳しさの中で育った日々こそが、自分を「幸福の達人」にしてくれたとも語りました。

 なぜ千代は父親を嫌わなかったのでしょう。彼女が綴った父・俊次の人物像、超スパルタ教育の真意、そして不幸の中に幸福を見つける力がどのように育まれたのかを辿ります。

「一種の奇人ないし狂人」宇野千代が見た父・俊次

 宇野千代の父・俊次は、安政2年(1855)7月29日、山口県玖珂郡下久原村(現在の山口県岩国市)の代々酒醸造を営む裕福な旧家の次男として生まれました。分家の養子となったのち、40を過ぎるまで家庭を持たず、各地を放浪して放蕩無頼の生活を送っています。

 長女の千代が生まれたのは、俊次が42歳のとき。俊次は生涯定まった生業を持たず、生家からの仕送りで暮らしながら、馬を飼って競馬に出したり、鯉やカナリア、鶯、九官鳥などの動物を飼育したりして過ごしていました。

 家では厳格な父親で、千代が「バルザックやドストエフスキーの小説にしか出てこない一種の奇人ないし狂人だった」と形容するほど、一筋縄ではいかない人物でした。

宇野千代の故郷・山口県岩国市の錦川にある錦帯橋(1919年以前。パブリックドメイン)
宇野千代の故郷・山口県岩国市の錦川にある錦帯橋(1919年以前。パブリックドメイン)

伝説の男

 そんな父親には、さまざまな伝説がありました。花街ではひょうきんな遊び人として知られ、料亭の料理番と口裏を合わせて客の吸物椀にひよこを入れたという、実際にはあり得ないような話まで残っています。

 俊次なら本当にやりかねないと思わせるところがあったのでしょう。父の逸話を語るだれもが、どこか畏敬の念をもって話しているように千代には見えたといいます。

壮絶な最期

 俊次は千代が15歳のときに亡くなりましたが、その死もまた凄絶でした。

 吐血と下腹部からのおびただしい出血が続き、体はみるみる間に骨と皮のようになっていきました。しかし、どれほど病に苦しもうとも、弱音を吐くことはありませんでした。

 最後は、雪の降る中、出刃包丁を手に往来へ走り出て狂ったように振り回し「寄るな!寄るとぶった切るぞ!」と叫びながら倒れ込むという壮絶な最期を迎えます。

 やせ衰えた体のどこにそんな力が残っていたのか。血で染まった雪と父の狂気の一瞬を、千代は生涯忘れることはありませんでした。

 こうした俊次の奇行の数々は近所中に知れ渡っており、亡くなったときに家へ訪れた町の人々は「やかましい人がいなくなって、これでおたくも楽になりますのう」と、悔やみではなく喜びの言葉を口にしたそうです。俊次は、強烈で、恐れられ、そしてどこか憎めない存在だったのでした。

「草履は腐るが足は腐らん」父の超スパルタ教育

 千代の記憶にある俊次は、いつも家の中心にある「時計の間」に座り、庭の泉水や蜜柑畑を見渡しながら、近寄りがたい表情をしていたといいます。

 父親は家族の中でも絶対的な存在で、子どもたちはもちろん母親でさえ時計の間に入ることは許されませんでした。俊次に呼ばれたときは、「はい」と大きな声で返事をし、どこにいても駆けつけ、襖の外に正座して命令を待たなければなりません。

 命令はいつも突然で、「水を持って来い」「障子をあけろ」と言われれば、即座に行動することが求められました。笑顔を向けることすら許されず、関係はまるで殿様と家来のようだったといいます。

 俊次は「超スパルタ」で、子どもに甘い言葉をかけることは決してありませんでした。

 雪の日には「草履は腐るが足は腐らん」と言われ、千代は裸足で学校へ行ったこともあります。夜半、月明かりに照らされた川沿いの山道を酒屋まで歩かされることもありました。毎日のように「ヒズリ(ハコベ)を取ってこい」と命じられ、雨の日も風の日も裏庭へ走りました。

 雑誌や新聞を読むことも禁じられ、千代は厠に隠れて新聞を読み、見つかれば容赦なく叩かれました。学校から帰っても遊びに行くことは許されず、祭りの太鼓が鳴っても外へ飛び出すことはできませんでした。

尋常小学校
尋常小学校

娘自慢をする意外な一面

 家族にとって暴君のような俊二ですが、その一方で馬や金魚、珍しい柑橘類には朝夕欠かさず世話をし、まるで別人のように愛情深かったといいます。

 さらに、千代が成績優秀で旧藩主(吉川家)から褒美をもらうと、料理屋や芸者屋へ千代を誇らしげに連れ歩き、「今日はこいつが学校へ呼ばれての」と褒美を見せたという微笑ましい一面もありました。

超スパルタ教育の裏に隠された父の真意

 昭和40年(1965年)、67歳のときに書いた随筆「何でも一度してみること」の中で千代は、「私たち子供は、この父親を道徳の鑑のように思って恐れ敬っていた」と書いています。

 千代たちが父親を恐れながらもどこか誇らしく感じていたのは、父の言葉が絶対であり、従うことが自分の役目だと自然に受け入れていたからでした。

 さらに、父の振る舞いを理不尽だと感じたことはなく、許されることと許されないことは生まれたときから決まっているのだと幼い頃から理解していました。

 雪の中を裸足で歩く千代を見た町の人々は「千代さまがまた裸足で」と気の毒がりましたが、千代自身は自分を可哀想だと思ったことは一度もありませんでした。

 興味深いのは、千代が大人になってから気づいた父の「真意」です。

「何でも一度してみること」には、父親の教育について次のように書かれています。

「……この父親もまた、その若い頃には、箸にも棒にもかからぬ放蕩者であった。父は自分の若い頃のことを考えて、大切な子供たちに、自分と同じ轍を踏ませないようにと、そう言う親心から私たちに口喧しい教育を施したのであった。」
「何でも一度してみること」より

 若い頃、父自身が放蕩者だったため、娘には同じ道を歩ませたくなかったのだと、後年、千代は理解するようになったのです。

 しかし、昭和9年(1934年)、36歳のときに書いた「模倣の天才」(原題「文学的自叙伝」)では、厳格な父の教育を次のように否定しています。

「父親はたぶん若い頃の自分のことを考えてその子供が同じような困り者の娘になることを惧(おそ)れていたのであろうが、もしそうであったならば父親の教育法は間違っていたのである。私は無暗に父親のさせぬことをしたがるようになったから。」
「模倣の天才」より

 年を重ねて角が取れると、父親に対する考え方も変わるのかもしれません。

奇人の父がくれた「不幸の中に幸福を見つける力」

 宇野千代は、幼い頃の自分を「決して不幸だと思っていなかった」と語り、「私の幸福観とも言うべきものは、私の育った環境によってつくられた」(『私の幸福論』)と述べています。

 厳格すぎるしつけ、自由のない生活、そして絶対的な父の命令。そうした日々を不幸と感じるどころか、千代はむしろ「幸福を感じる力」を育てていったのです。

「人の眼から見て、子供の頃の私が、どんなに悲惨なものであったとしても、それは私自身には関係がなかった。却(かえ)って、人の眼から不幸に見えた境遇であっただけに、不幸に対しては鈍感であり、幸福に対しては感じ易い、そういう感じ方で幸福を知っていたと思う。」
『私の幸福論』より

 人から見れば悲惨に見える境遇でも、当人がそう感じなければ不幸ではない。逆に、どれほど恵まれていても、本人が満たされなければ幸福ではない。厳しさの中で育った千代は、ほんの小さな喜びにも敏感になり、「ああ、私は今幸せだな」と思える人間になったのです。

「幸福であるのも不幸であるのも、本人のものの考え方一つで決まる場合が多いと思うのであるが、そういう点で、私は自分を幸福に感じる感じ方が案外上手な人間だと思う」
『私の幸福論』より

 父の存在こそが、千代の「幸福観」を形づくり、人生を支える芯となりました。

 そして千代は、父を恨むどころか、自分の中に父の血が流れていることに「愛情に似たうずき」を感じると語ります。奇人でありながら、娘に強さと感受性を与えた父。その育て方は決して優しいものではありませんでしたが、千代にとっては人生を豊かにする「幸福の見つけ方」を教えてくれた存在だったのです。

宇野千代(1960年、出典:国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」)
宇野千代(1960年、出典:国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」)

父のことはすべて、この私のことではなかったか

 著書『生きて行く私』で、父俊次の人生を綴りながら、千代は自分が父の性質をそのまま受け継いで生きてきたことに気づきます。

「ここまで書いて来て、おや、この父のことは凡て(すべて)、この私のことではなかったかと、思わず私はぎょっとした」
『生きて行く私』より

 上記のように述べており、したいことは何でもしたという父の無頼の血が自分にも流れており、それを制御できているのは84歳という年齢のせいだけではないかと考えるのです。

 さらに彼女は、「寄るな。寄るとぶった切るぞ」と叫びながら包丁を振り回した、父の狂気の瞬間へ思いを馳せます。

「俺はいま死ぬ。この放蕩無頼の一生を、いま、この瞬間に、出来ることなら始めからやり直したい。人の世に定められた真っとうな生活を、もし出来ることなら、始めから踏み直したい」
『生きて行く私』より

 その刹那、父が言いたかったことが、84歳になった自分にははっきりと分かると記しています。

 奇人であり暴君だった父を、もう一度子ども時代をやり直すなら、また同じ父に育てられたいと断言した娘。放蕩無頼の父のおかげで、千代はほんの小さな喜びを見つける達人となり、人生をしなやかに生き抜く力を身につけたのでした。

【参考文献】
《 編集部ピックアップ 》

※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
本好き、映画好き、歴史好きなWEBライターです。好きな作家は山本周五郎、お気に入りの映画は市川崑の「金田一シリーズ」。図書館司書の勉強中「古書」にはまって以来、明治・大正・昭和初期の市井の人々の記録や“ちょっといい話”を掘り起こすことに喜びを感じています。

コメント欄

  • ※この記事に関する感想・議論は、「コメントする」ボタンから投稿(要会員登録)いただけます。
  • ※誤字脱字等のご指摘は編集部で迅速に対応するため、[こちらの専用窓口]から直接お知らせいただけますと幸いです。