中大兄皇子は本当に英雄だったのか? 乙巳の変・大化の改新の真相と天智天皇の素顔
- 2026/09/11
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大化の改新について学校で習うのは、「中大兄皇子と中臣鎌足が悪役の蘇我入鹿を倒し、新しい国づくりを始めた」というシンプルな物語だ。しかし、登場人物や当時の状況を詳しく調べてみると、生々しい権力闘争や、英雄とされる人物の意外な裏の顔が浮かび上がってくる。
今回は「乙巳の変」と「大化の改新」、そして中心人物である中大兄皇子(後の天智天皇)について、教科書とは違う視点からたどってみたい。
今回は「乙巳の変」と「大化の改新」、そして中心人物である中大兄皇子(後の天智天皇)について、教科書とは違う視点からたどってみたい。
大化の改新
大化元年(645年)、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて、中大兄皇子と中臣鎌足が皇位を奪おうとしたとされる蘇我入鹿を、皇極天皇の目の前で暗殺した。さらに追いつめられた入鹿の父・蘇我蝦夷も自害し、蘇我本家は滅亡する。これが、大化の改新のスタートとなる「乙巳の変(いっしのへん)」である。このストーリーは主に『日本書紀』の記述に基づいているが、果たしてどこまで信じてよいのだろうか。
『日本書紀』は事件から約70年後に編纂された歴史書だ。しかも編纂されたのは、天智天皇の血を引く天皇と、中臣氏の子孫である藤原氏が権力を握っていた時代である。そのため「自らの正当性を強調する意図があったのではないか」というのは、多くの研究者が指摘するところだ。
つまり、天智天皇(中大兄皇子)と藤原氏(中臣鎌足)を英雄として描く一方、対立した蘇我氏を過剰に悪者として描いている可能性もある。そのため、クーデターである「乙巳の変」と、その後の政治改革「大化の改新」は分けて考えるべきだと強く主張する研究者も多い。
クーデターの目的も、最初から教科書で語られるような「壮大な国家改革」を目指していたとは限らない。蘇我氏が皇位を奪おうとしていたという話自体、クーデターを正当化するための捏造であった可能性さえ指摘されているのだ。
別の視点から見た大化の改新
この事件の背景には、単なる蘇我氏の野望だけでなく、皇位継承をめぐるさらに根深い対立があったと考えられる。特に注目されるのが、乙巳の変の2年前(643)に起きた、山背大兄王(やましろのおおえのおう=聖徳太子の子)の一族が滅ぼされた事件だ。これは蘇我氏の独断というより、当時の皇極天皇の命令だった可能性を示唆する研究者もおり、この後から天皇家内部での激しい派閥抗争が表面化してきた。
さらに、クーデターの真の首謀者についても興味深い説がある。通説では中大兄皇子と中臣鎌足とされるが、当時の中大兄皇子はまだ19歳前後の若者に過ぎない。そのため、彼ではなく叔父にあたる軽皇子(かるのおうじ/後の孝徳天皇)が主導したのではないかという見方だ。
当時、蘇我氏が推していたのは古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)であった。彼が即位してしまえば、軽皇子が天皇になれる可能性はきわめて低くなる。そこで、古人大兄皇子のお披露目の場とも言える儀式を狙い、入鹿暗殺に踏み切ったのではないかというのだ。
教科書とは違う中大兄皇子
さて、ここで気になるのが中大兄皇子(後の天智天皇)の人物像だ。英雄とたたえられる一方で、非常に冷酷な一面も浮かび上がってくる。まずは「諡(おくりな=死後に贈られる称号)」に注目してみよう。「天智天皇」という諡は、古代中国の暴君として知られる殷の紂王(ちゅうおう)が持っていた宝玉「天智玉」に由来するという説がある。もしこれが事実なら、決して名誉な称号とは言えないはずだ。
また、乙巳の変の後、彼にとって邪魔となる権力者が次々と排除されている点も不気味である。そのやり方は、協力者であっても容赦なく切り捨てるようなかなり非情なものだったと考えられる。
- 古人大兄皇子(異母兄):事件後すぐに出家して吉野へ隠棲したにもかかわらず、謀反の疑いをかけられて討たれる。
- 蘇我倉山田石川麻呂(右大臣):クーデターの功労者であったが、濡れ衣とも言える謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれる。
- 有馬皇子(孝徳天皇の皇子):有力な皇位継承候補。難を逃れるため狂気を装っていたらしいが、中大兄皇子の側近といわれる蘇我赤兄(そがのあかえ)にそそのかされ、謀反の心を漏らして即座に捕らえられ、処刑される。
これらの事例を見ると、乙巳の変から始まる一連の出来事は、突き詰めれば中大兄皇子が権力を手に入れるための謀略だったという見方も成り立つ。
彼が自ら擁立したはずの叔父・孝徳天皇との関係も異常であった。孝徳天皇が難波(大阪市)に遷都したものの、後に中大兄皇子はこれに強く反発。母である斉明天皇(皇極天皇が重祚)、弟の大海人皇子、さらには孝徳天皇の皇后である自身の妹(間人皇女)までも引き連れて、勝手に飛鳥へ戻ってしまったのだ。
天皇をたった一人置き去りにし、その皇后まで連れ去るという前代未聞の事態に、孤立した孝徳天皇は失意の中で没したと伝えられている。
即位は23年も後
中大兄皇子が「天智天皇」として正式に即位するのは、乙巳の変から実に23年後、天智天皇7年(668)のことである。なぜこれほど時間がかかったのかは大きな謎だが、いくつかの可能性が考えられる。説の一つは、あえて即位せず「皇太子」の立場で実権を握り続けたのではないかというもの。あるいは、実の妹である間人皇女との不適切な関係があったとするもの。もしこれが事実なら、当時の感覚からしてもかなりタブー視されたに違いないし、即位への大きな障害になった可能性もある。
もう一つ、大きな要因として挙げられるのが、斉明天皇9年(663)の白村江の戦いだ。百済(くだら)を救援するために朝鮮半島へ大軍を送ったものの、唐・新羅の連合軍に壊滅的な敗北を喫した戦いである。
この敗戦の責任が即位をためらわせた可能性もありうる。この出兵自体、周りの反対を押し切って強行されたという話があるが、さらに踏み込んだ説として、中央集権化を進める上で邪魔な地方の豪族たちを戦地に送り込んで消耗させる「採兵(さいへい)」という目的があったのではないかという大胆な仮説も付記しておこう。
そして晩年
ようやく即位した天智天皇は、天智天皇9年(670)に日本初の全国的な戸籍とされる「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成するなど、中央集権的な国家体制の整備を進めた。しかし、晩年もまた波乱含みであった。当初、後継者として有力視されていたのは優秀だった弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)であった。しかし天智天皇は最終的に、自分の息子である大友皇子を後継者にするべく画策。この動きが彼の死後、古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」を引き起こす直接的な原因になったと言われている。
天智天皇の死因は、公式には病死とされているが、実は暗殺されたのではないかという説も根強い。
おわりに
最後に、先ほど触れた「天智」という諡と、壬申の乱で勝利した弟の諡「天武」を比べてみよう。「天武」は、中国の暴君・紂王を倒した周の「武王」を連想させる名だと言われている。紂王の宝玉に由来するとす「天智」とは対照的だと指摘する声もある。つまり「天智」という名は、勝者となった天武天皇側のグループから見た「敗者(あるいは暴君)としての兄」への評価が込められているのかもしれない。「歴史は勝者によって書かれる」とは言うが、その言葉の意味を天智天皇の波乱に満ちた生涯は静かに物語っている。





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