徳川綱吉の生涯と強権政治の裏側。なぜ将軍綱吉は「暗君」にされてしまったのか
- 2026/09/17
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将軍親政の名のもと、次々に独自の政策を強行していく綱吉。しかし、後世からの評価は芳しくありません。彼が出した法令は「悪法」と断じられ、その絶対的な権力は「恐怖政治」とまでみなされました。
いったい綱吉は何を思い、何にこだわっていたのか。その生涯を通じて考察してみたいと思います。
館林藩主時代の綱吉
徳川綱吉は、正保3年(1646)に3代将軍・徳川家光の四男(幼名・徳松)として生まれました。長兄にのちの4代将軍・家綱(幼名・竹千代)、次兄に綱重(幼名・長松)がおり、三兄は幼くして亡くなっています。綱吉と綱重は対等の待遇を受けたようで、慶安4年(1651)には、両人揃って15万石の賄料を与えられています。この頃に父・家光が死去するものの、4代将軍となった家綱のもとで、二人は引き続き同格として扱われました。やがて元服を迎えた綱吉は、家綱から一字を賜って「綱吉」と名乗り、次兄も同様に「綱重」と改名しています。
寛文元年(1661)、綱重は甲府藩主として25万石を、綱吉は館林藩主として25万石を与えられ、ともに参議へ叙任されました。唐名では参議を「宰相」と言い表すため、二人は甲府宰相・館林宰相と呼ばれたそうです。
もっとも、綱吉の領地は上野・下野を合わせても13万石足らずにすぎません。実は美濃で7万石、信濃に1万5千石、近江に3万5千石もの飛び地がありました。関東地方に天領(幕府直轄領)や大名領、さらには旗本領などが混在した結果、こうした歪な領地形態が生まれたのでしょう。
しかし、綱吉が館林藩へ入ったのはわずか一度きりです。寛文3年(1663)5月、日光へ社参した綱吉は、9日に館林城へ立ち寄りました。同月15日には将軍・家綱に拝謁しているため、現地に滞在したのはほんの数日です。
そのためでしょうか、綱吉は江戸の神田御殿で暮らしており、500人余りいる家臣のうち、館林藩で勤務する者は22人にすぎなかったといいます。藩政の運営も館林城代に任せきりで、綱吉と国元の関係性は非常に希薄だったと言わざるを得ません。もちろん、それは兄・綱重も同様だったはずです。
そうした中でも、幼い頃から聡明だったという綱吉はたびたび藩政に介入しています。「館林城に詰める藩士が少なすぎる」と訴えた城代・大久保忠辰を罷免したり、博打に興じる藩士を追放したりして藩内の綱紀粛正を図りました。また、家中に倹約令を敷き、藩士の物見遊山を禁止するなど、江戸に居ながら政治の立て直しを行っています。
その背景には、館林藩の苦しい台所事情があったようです。当時、東日本では天候不順による不作が頻発し、館林藩の財政は極度に逼迫していたのです。寛文7年(1667)には7万両を借り受け、延宝5年(1677)には米5万俵の助成を受けるなど、たびたび幕府からの支援を仰いだといいます。
将軍の弟という立場もあり、綱吉には忸怩たる思いがあったのでしょう。「自分が藩政を立て直さねば」という強い気持ちを抱いていたに違いありません。そして、江戸詰めの家臣の中から有能な人材を見出そうとしました。それが、のちに側用人となる牧野成貞や柳沢吉保といったブレーンたちです。
強権的な政治を敷く将軍・綱吉
延宝8年(1680)5月、病床にあった家綱は弟の綱吉を呼び出し、「自分の養子になること」「館林藩主は徳松(綱吉の子)が継ぐこと」を命じました。その2日後に家綱が亡くなると、綱吉は将軍後継者として江戸城本丸に入り、同年8月には朝廷からの勅使が下向して、改めて将軍宣下の儀式が挙行されました。もっとも、綱吉の将軍就任に至るまでには紆余曲折がありました。すでに兄の綱重は亡くなっていましたが、その子・綱豊(のちの6代家宣)も次期将軍の有力候補だったのです。つまり、血筋の順序で考えれば、綱豊が第1位、綱吉が第2位となります。
やがて将軍の後継者をめぐり、綱豊に肩入れする大老・酒井忠清と、綱吉を推す老中・堀田正俊が真っ向から対立。結局、「家光公に血筋が近いから」という理由で綱吉に軍配が上がり、酒井忠清は大老職を罷免され、代わって綱吉の信任を受ける堀田正俊が幕政の中心人物となりました。
綱吉はこれを機に、強い将軍像を具現化すべく強権的な政治を断行していきます。
まず天和元年(1681)、越後騒動の再審に乗り出しました。これは越後高田藩の御家騒動に端を発する事件で、いったんは酒井忠清の裁定によって処分が下っていたものです。
しかし、綱吉は「裁定が甘すぎる」と断じて同藩を改易に処し、関係した大名も減封・転封処分としました。事件の当事者には切腹や遠島が申し渡され、先の裁定にあたった幕府関係者にまで厳しい処分が下されました。
この裏には、たとえ徳川一門であっても家中統制に失敗すれば改易もやむなしという、断固たる姿勢が垣間見えます。綱吉自らが親裁に乗り出すことで、強い将軍像をアピールする狙いもあったのでしょう。
以後、綱吉の時代だけで40を超える大名が改易・減俸・転封に処されました。その中には藩政の失敗だけで説明できない事例もあり、綱吉の機嫌を損ねたことが原因で処分された大名も存在します。
天和の治と、側用人政治
綱吉の政治方針は、彼自身が改訂した『武家諸法度』によく表れています。第一条にあった「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」を「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」へと改め、秩序と礼儀こそが時代にふさわしい政治論理であると明言しました。その背景には、綱吉が重視した儒学思想があります。延宝8年(1680)に幕府代官へ通達された令には、次のような言葉が残されています。
「民は国の本なり。御代官の面々常に民の辛苦を能察し、飢寒等の愁これなきよう」
「上下互いに疑いを持たず、念を入れるよう」
つまり、為政者は民衆の目線で政治を行うべきという考え方ですね。そうすれば民衆は為政者を敬うようになって不満も起こらず、秩序ある社会が到来すると述べているのです。実際に綱吉は、捨て子の禁止や弱者の救済など、人道的な政策を次々に打ち出しました。あの悪法で名高い「生類憐みの令」も、その延長線上にあったと言えます。
綱吉の治世初期、こうした政策を支えたのが大老・堀田正俊でした。農民困窮の打開策や飢饉対策をはじめ、民政を中心に幕府を支えたといい、この時期の年号を取って、後世「天和の治」と呼んでいます。
ところが、貞享元年(1684)に堀田正俊が稲葉正休によって刺殺され、天和の治はあっけなく終焉を迎えました。ここから、綱吉の腹心たちが台頭する「側用人政治」が始まります。
館林藩主時代から仕えていた柳沢吉保は、元禄元年(1688)に側用人に登用され、わずか7年後に老中格となりました。側用人は本来、将軍の意向を幕閣へ伝えるメッセンジャー的な役割でしたが、吉保は綱吉の代弁者、あるいは政策の実行役として絶大な権力を振るうようになります。
経済面でのブレーンとなったのが、同じく館林の旧臣だった荻原重秀です。元禄8年(1695)、幕府勘定所のトップに抜擢された重秀はさっそく貨幣改鋳に乗り出しました。これまで流通していた慶長小判の純度を84%から57%へ引き下げ、さらに慶長銀も80%から64%へ純度を落としたそうです。
つまり、金や銀のまぜものを増やし、世の中に出まわるお金の量を無理やり増やしたのです。その結果、幕府は約500万両の通貨発行益を得て、慢性的な財政赤字の解消に役立てました。
貨幣の質を下げて流通量を増やせば、お金の価値が下がってモノの値段が一気に上がる「インフレ」を招く危険はありました。それでも、全国的な金銀の採掘量が目減りし、経済発展に伴う貨幣需要の増大が求められる中では、やむを得ない方策だったと思えます。
もう一つの目玉政策が「地方直し」です。これは500石以上の旗本の俸禄(いわゆるサラリー)をすべて土地の知行に切り替えるというもの。つまり、地方に領地を与えることで年貢米を直接得られる仕組みです。これにより、天領の年貢米を江戸へ輸送する手間や経費が節減され、財政負担の軽減に繋がったわけですね。
こうした政策の数々は、館林旧臣を中心とするチームによって実行され、綱吉が大名時代に育てたブレーンたちが経済面で大きな功績を残したのです。
生類憐みの令は、本当に悪法だったのか?
綱吉の生涯を語るうえで、「生類憐みの令」は外せません。今日では悪法として知られていますが、実態はどうだったのでしょうか。この政策の背景にも、綱吉が信奉した儒学の精神が生きています。すでに将軍就任直後の天和2年(1682)には諸国へ高札が立てられ、「忠孝を奨励し、夫婦兄弟は仲良くせよ。また召使いなども憐れむように」という主旨の触れが諸国へ出されていました。生類憐みの令は、そうした思想の延長線上にある法令だったのです。
貞享2年(1685)、「将軍が通る道筋に犬猫が出てきても構いなし」という町触れから始まり、江戸城内における鳥・魚類の調理禁止、病気になった牛馬の遺棄禁止など、動物を憐れむ触れは実に116件に及んだといいます。しかし、その法令の末尾はこう結ばれていました。
「犬ばかりに限らず、総じて生類人々慈悲の心を元といたし、憐れみ候儀、肝要に候事」
つまり、綱吉は生類憐みの令を通じて、慈悲の心による優しい社会を実現したかったのかもしれません。そうすれば争いもなくなり、理想的な世がやってくると本気で信じていた節があります。野犬の糞尿や死骸の放置が重大な衛生問題・疫病の原因になるため、巨大な収容施設を作ってまで数万頭の野犬を保護したことも、その一環でした。
しかし、動物愛護の精神が根付いていない時代に、それを頭ごなしに人々に理解させるのは無理があったようです。動物の保護活動が社会の大きな負担となる中、法に対する怨嗟の声は世間に満ち溢れました。結果として綱吉は理想を実現できぬまま、宝永6年(1709)に世を去りました。
実子の徳松が早くに亡くなっていたため、甥にあたる綱豊を養子に迎えていましたが、綱豊が「家宣」と改名して第6代将軍に就任すると、綱吉の葬儀も待たずに生類憐みの令はあっけなく撤回されてしまいます。その後、綱吉の政治はことごとく批判され、「暗君」という厳しい評価を受けることになりました。
終わりに
綱吉にいささか偏執的や癇癪持ちといった側面があったことは否めませんが、決して暗愚ではなかったと思います。自分の考える政策を着実に実行へ移すために、優秀なブレーンたちを適材適所で登用した手腕は確かです。ただ、いかに政策が優れていようとも、人々の共感や理解を得るプロセスを欠いたままでは、強引な押し付けに終わってしまいます。生類憐みの令がうまくいかなかった理由は、綱吉が「自分が正しい」と信じ込み、あまりにも独善的になってしまった点に尽きるのではないでしょうか。




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