【水戸黄門のリアル】将軍綱吉の目の上のたんこぶ!「副将軍」徳川光圀が貫いた正義
- 2026/09/16
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テレビドラマの影響で「水戸黄門(徳川光圀)」の名を知らない人はほとんどいないだろう。しかし、実際どのような人物だったかを知る人は少ないだろう。
水戸黄門を“水戸黄門”足らしめた背景には、幕府における水戸藩の特別な立ち位置が関係している。早速史料を紐解いてみよう。
水戸黄門を“水戸黄門”足らしめた背景には、幕府における水戸藩の特別な立ち位置が関係している。早速史料を紐解いてみよう。
そもそも副将軍とは?
日本の武家政権における副将軍とは、本来「征夷副将軍」という正式な役職を指す。しかし、実際に任じられた例は少ない。室町幕府では、建武5年(1338)に足利直義が、9代将軍・足利義尚の時代には斯波義寛が任じられた記録があるという。また『石見吉川家文書』には次のような驚きの記述が見られる。
「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り」
当時の将軍・足利義昭は、信長に京を追われた後には毛利氏の庇護下にあり、備後の鞆に幕府の機構を移して活動を続けていた。その際、毛利輝元を副将軍に任じたというのだ。
また、実質的に副将軍の権限を持った一族もいた。鎌倉時代の北条得宗家である。例えば、『教行信証』では、9代執権・北条貞時のことを「当副将軍相州太守平朝臣」と記しているという。また、14代執権・北条高時を「大施主副将軍家」と表現している件が金沢文庫文書の『不断両界供偏数状』にあるのだそうだ。
慶長8年(1603)に江戸幕府が成立して以降、こうした正式な副将軍職は置かれていない。伊達政宗が「天下の副将軍」と呼ばれたことがあったらしいが、これは徳川家康から信頼され、2代秀忠・3代家光の後見を託されたことに端を発するという。家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていたといい、その特別な存在感がこの通称に集約されたようだ。
そして、徳川光圀もまた「天下の副将軍」と称された。これは父である水戸藩初代藩主・徳川頼房が3代将軍家光の相談役として信頼されていたということに由来するらしい。
なんでも、頼房は江戸にいることがほとんどで、家光が亡くなるまでの17年間、水戸に戻れたのはわずか3回だったという。これ以降、水戸藩主は参勤交代を免除され、江戸に定住することになり、将軍の補佐役という意味合いで「副将軍」と呼ばれるようになったようだ。
副将軍・水戸光圀、物申す
徳川頼房が相談役としての「副将軍」だったのに対し、光圀の場合は幕府の「ご意見番」としての言動が目立つようになったと思われる。例えば、貞享元年(1684)の大老刺殺事件に関するエピソードが挙げられよう。これは大老・堀田正俊が稲葉正休に刺殺され、稲葉もその場ですぐ老中たちに殺害された。これを耳にした光圀は並みいる幕閣を前に激怒した一件のことだ。
光圀:「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か!」
実は当時、この事件には裏があるとして、5代将軍・綱吉の関与が噂されていた。綱吉が将軍に就けたのは正俊の尽力によるものだったというが、大老として絶大な発言力を持っていた正俊は、その剛直な性格のためか、周囲から少々煙たがられていたようだ。こんな話が伝わっている。
稲葉正休は、天和3年(1683)に豪商・河村瑞賢を伴って淀川の視察を行う。度重なる水害に悩まされていた淀川流域の治水を行うためであった。正休は「淀川治水策」を書き上げ、治水費用として4万両を計上。ところが明敏な堀田正俊はこの金額に不審を抱き、改めて瑞賢に問いただしたところ、「2万両でも可能でございます。」と答えた。このことで、正休は淀川の治水事業の任を解かれることとなったのである。
このときの恨みが刺殺の動機であるともいう。しかし、正俊が綱吉の進める「生類憐みの令」に反対していたことや、事件後すぐに正休が消されたことから、将軍綱吉の関与も囁かれたのである。
おそらく光圀は事件を調べた上で綱吉の関与を確信し、綱吉に強い不信感を持ったのではないだろうか。
5代将軍・徳川綱吉との対立
大老・堀田正俊刺殺事件の少し前から、光圀と綱吉は将軍の跡継ぎ問題で対立していた。綱吉は嫡男の徳松を次期将軍に望んだが、御三家にその相談が持ち込まれた際、光圀が真っ向から反対したという。本来、5代将軍は綱吉でなく、兄の綱重が就く予定であった。しかし綱重が早世したため、弟の綱吉が継いだという経緯がある。であれば、綱重の子である綱豊(のちの6代家宣)を養子に迎えて継がせるのが筋であった。光圀はこれを理由に徳松を後継者とすることに異を唱えたのである。
その後、徳松の死によって綱吉の娘婿の紀州藩主・徳川綱教が候補に上がったが、光圀はこれにも反対し、後継者はなかなか決まらなかった。結局、光圀が推した綱豊が後継となったが、それは光圀の死から数年後の宝永元年(1704)のことであった。
光圀が生きている間、何としても彼の意見を採用したくなかったものと見える。綱吉は非常に聡明であったが、自分の価値観でしか物事を測れないところがあったようだ。他者の諫言を受け入れる度量に乏しく、光圀のように剛直な人物とはそりが合わなかったのだろう。
光圀も、堀田正俊刺殺事件で芽生えた綱吉への不信感もあったのか、綱吉に意見することもしばしばであったらしい。『徳川実記』には、「(光圀が)しばしば直言をもうされし事」とある。特に生類憐みの令に対しては
「天下の悪法」
「政道の本末を誤る」
等と手厳しく批判している。
このように水と油のような関係であった2人だが、外見も対照的であった。光圀は長身の美男子だったのに対し、綱吉は一説に身長124cmと言われるほど小柄で、顔も美男子というには遠かった。威風堂々とした様子で光圀が話すと「一体どちらが本当の将軍なのか」と訝しく思う家臣もいたのではないだろうか。綱吉は屈折した思いを払拭できなかったのだろう。
やがて老中・阿部正武に命じて光圀に隠居を勧めさせたという。最初は難色を示していた光圀であったが、綱吉と渡り合うのが面倒になってきたのか、結局は元禄3年(1690)10月14日に家督を綱條に譲って隠居した。
隠居直後に中納言に任じられた。中納言の唐名が「黄門」であることから、ここに「水戸黄門」の誕生となったのである。
あとがき
徳川光圀は将軍綱吉にしてみれば、目の上のたんこぶのような存在であった。常に正論でごりごり押してくる光圀のような人物は、自らの価値観が絶対的と考えている綱吉にとって目障り以外の何物でもなかったろう。しかし、組織には光圀のようなご意見番が必要であり、それを欠くと様々な問題が生ずるものだ。
綱吉の治世におけるその最たる例が「赤穂浪士事件」ではないか。元禄14年(1701)4月21日、江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が高家・吉良上野介に斬りかかった一件で、綱吉は浅野を即日切腹、吉良はお咎めなしという極端な裁定を下した。この不公平さが赤穂浪士たちの討ち入りを引き起こし、幕府の威信を揺るがしたのは周知の通りだ。
しかし当の綱吉は、「赤穂浪士事件」の起きる前年に徳川光圀がこの世を去っていたことに、密かに胸を撫で下ろしていたのかもしれない。





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