【豊臣兄弟!】賤ヶ岳の戦い後に秀吉の弟・羽柴秀長が得たものとは?
- 2026/09/07
濱田浩一郎
:歴史学者・作家・評論家
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第34回は「最強のライバル」。
天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)において羽柴秀吉は柴田勝家軍を撃破、勝家は居城の越前北庄城に逃れますが、秀吉軍に攻囲され、ついに潔く死を選んだのです。勝家と結んでいた織田信孝(信長3男)も兄・織田信雄(信長次男)に岐阜城を攻略され、その後、尾張国内海(愛知県美浜町)の大御堂寺まで連行されました。そして5月2日に自害するのです。
『川角太閤記』(江戸時代初期に成立した秀吉の軍功を中心にした一代記)には信孝の辞世の句が記されています。
「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
尾張国野間の内海で源義朝(源頼朝の父)を討った家臣・長田忠致の逸話に因むものです。主(織田)を討った逆臣(秀吉)よ、お前にも報いが訪れようぞとの信孝の凄まじい恨みが伝わってくる辞世の句です。信孝や勝家を滅ぼした秀吉は織田政権の運営を主導していく立場となります。それまで秀吉は織田信雄を擁していましたが、次第に信雄を介さず、天下の政務を推進していきます。
その居城となったのが摂津国の大坂城です。天正11年(1583)5月下旬、秀吉は織田家諸将や家臣に対し、領国の配分を行っています。これには信雄は関与していません。この領国の配分により、秀吉の弟・秀長は播磨国を与えられます。
『天正記』(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)には秀長は「播磨・但馬の守護」となり、姫路城が居城となったとあります。「播磨の守護」となったとは言っても、龍野城には蜂須賀小六正勝、広瀬城(宍粟市)には神子田正治、三木城には前野長康が配されることになったので、秀長は播磨一国を領国とした訳ではありません。秀長の領国は播磨の飾東郡・加東郡・多可郡の3郡にすぎなかったと考えられています。但馬についても同様で秀長は但馬一国を領国とした訳ではありません。



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