【豊臣兄弟!】徳川家康は羽柴秀吉ではなく、信長の次男・織田信雄になぜ加勢したのか?
- 2026/09/14
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第35回は「秀長誕生」。
天正11年(1583)は羽柴秀吉と織田信雄(信長次男)の対立が深まった年でしたが、破局にまでは至っていませんでした。ところが翌年(1584)3月6日、信雄は衝撃的な行動に出ます。秀吉と親交を持ち、折衝していた重臣の津川雄光・岡田重孝・浅井長時を伊勢長島城において殺害したのでした。
『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の伝記)には、この3人は武略兼備わっていたために、秀吉から目をかけられていたとあります。しかしそれが気に入らない信雄の近習らは3人が謀反心を持っていると言いふらしたのでした。同書によると3人は信雄の命令により切腹させられたとあります。3人が秀吉に従う姿勢を見せたことを信雄が気に入らなかったので、彼らを死に追い込んだとも記されています。
秀吉と交流のあった重臣を殺害したのだから、当然、秀吉は怒り、戦となることは明白でした。信雄はそれを承知の上で、重臣3人の殺害という挙に及んだのです。秀吉との関係を断つこと、そして秀吉と軍事的に衝突する道を信雄は選択したのです。
しかし信雄としても単独で秀吉と雌雄を決するだけの力はとてもありません。そこで信雄が助勢を求めたのが、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃国に領土を持つ徳川家康でした。信雄が3重臣を殺害したのも家康と相談の上でした。信雄が3重臣を殺害すると、家康はすぐに家臣の酒井忠次を伊勢長島に遣わしています。そして自らも3月13日に尾張国の清須城で信雄と対面しているのです。
家康の嫡男・松平信康(1559〜1579)は信長の娘・五徳と結ばれていました。徳川家は織田家と縁戚関係にあったのです。また家康は秀吉が信雄を織田家の当主に擁立した際にそれを容認していました。そうした縁もあり、家康は信雄に加勢したのでしょう。『太閤記』には家康は義を貫く立場に立とうとしたとあります。信長への恩を忘れ、その息子・信雄を蔑ろにする秀吉は許せないとの思いで家康は信雄に与したというのです。『徳川実紀』(19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書)にも信長との関係を忘れることなく、その子・信雄に味方する家康の姿が描かれています。




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