家康の異父弟・松平定勝の血統をつなぐ優秀な子供たち

  • 2026/09/11
松平定勝の像(出典:Wikipedia)
松平定勝の像(出典:Wikipedia)
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 徳川家康の異父弟・松平定勝は子だくさんに恵まれ、その子供たちが松山、桑名、今治各藩の藩主となりました。お取り潰しも珍しくなかった江戸時代に大名家を守り抜き、定勝の流れをくむ3つの藩そろって明治維新を迎えることができたのです。

家康と定勝の関係は?

 徳川家康と松平定勝の母は於大の方です。於大は家康の父・松平広忠と離別させられた後、久松俊勝と再婚しました。定勝は勝俊の4男として永禄3年(1560)に生まれています。

 定勝は小牧・長久手の戦いで武功を上げて家康に認められるようになり、関ケ原の合戦後には掛川3万石を与えられます。とくに甥である2代秀忠からの信頼が厚かったといい、元和3年(1617)には桑名藩11万石の大名へと出世しました。

 定勝には6人の男子がおり、長男の定吉が早世した後に二男の定行が後継者となります。さらに三男の定綱、五男の定房がそれぞれ大名家を興したのです。

松山藩初代藩主・定行

 定行は天正15年(1587)生まれで、父の定勝から掛川3万石を継承したのち、寛永元年(1624)に父の死去に伴い桑名藩を継ぎました。

 3代将軍家光は定行を頼りにしていたようで、寛永12年(1635)に伊予松山藩15万石へ加増転封させます。外様大名を配していた松山藩に久松松平家を入れることで、西国への睨みをきかせたかったのでしょう。

 定行は、道後温泉の改築に着手するなど松山発展に尽力したほか、松山名物のお菓子「タルト」の生みの親としても知られています。松山藩は定行を藩祖とし、幕末まで松平家が統治していきます。

桑名藩を継いだ定綱

 定綱は文禄元年(1592)生まれで、大坂冬・夏の陣に出陣するなどの功績もあり、小藩を転々としながら出世していきます。寛永12年に兄の定行が伊予松山藩に転封されると、桑名藩に久松松平家3代目の藩主として入ります。

 定綱は桑名の産業振興に尽力し、事実上の藩祖とも言われています。また、山鹿素行の教えを受けた武断派の大名として知られる一方で、詩文集を残す文化人でもあったようです。

 定綱系松平家は江戸中期に桑名を離れますが、江戸後期に再び桑名藩へ転封となり、そのまま幕末を迎えました。

定房の孫が松山藩を継ぐ

 定房が生まれたのは慶長9年(1604)で、すでに父の定勝は掛川藩主となっていました。寛永12年に兄・定行の伊予松山藩転封と時を同じくして、隣接する伊予今治藩3万石を立藩し、初代藩主となりました。定房も幕府が信頼を置ける人物だったようで、江戸留守居役などの重要な任務にあたったこともあります。

 今治藩は、松山藩松平家を支えていくという役割も担っており、それが現実味を帯びたのが定房の孫・定直の時でした。嫡子がいなかった松山藩3代藩主・定長の養子として定直が迎えられ、藩主の座を継いだのです。

 今治藩も定直の弟・定陳が継いでおり、以後松平家が幕末まで統治していきます。

おわりに

 松平定勝の六男・定政についても触れておきましょう。

 定政は刈谷2万石の大名に出世したのにもかかわらず、3代家光の死後、幕政改革の建白書を出したうえで、領地返上を申し出ます。幕府は「狂気の沙汰」として領地を没収し、定政は松山藩主の定行に身柄を預けられたのです。

 大名家としての存続はかないませんでしたが、定政も3人の兄たちに負けず劣らぬ優秀な人物だったのかもしれませんね。

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  この記事を書いた人
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

コメント欄

MasN
マイケルオズ様
松平定勝公の記事、楽しく拝見いたしました。
NHKのファミリーヒストリーに影響され自分の先祖について調べる事を老後の楽しみにしている還暦男です。
定勝公の息子達の活躍は久松松平家の中でも群を抜いて隆盛しています。
ただ、どの記事にも四男の定実公の記事が中々ありません。
定実公は大坂夏の陣で家康公のお怒りに触れ、蟄居しているうちに身体を壊して大名になる話を固辞したようですが(半年だけ長島城の城主だったようですが)、戦った相手が真田幸村の軍勢だったので、17歳という若さもあって張り切りすぎたのではないでしょうか。
定実公の子孫は旗本松平織部家として血脈を継いでおり、定勝公の兄弟の中で男系の血筋を受け繋いでいる家系のようです。子孫には花菖蒲育種家の松平定朝公も5代後におられる他、伊予松平家18代当主の久松定謨公も定実公の子孫に当たられます。
実は私の曽祖母は松平織部家の家系出身ですので私自身も定実公の末裔となるでしょうが、今後もこういった華やかな大名家の中に埋もれがちな分家の方々にもスポットライトがあたることがあればと密かな期待も持っております。
これからもマイケルオズ様の歴史に関する記事を楽しみにして拝見して参りますので、今後も益々ご活躍されます事をお祈りしております。
2026/09/11 20:15