1回の売血が15万円?戦後日本を揺るがした「売血」の闇歴史と血液銀行の真相
- 2026/09/18
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今回は日本における売血の歴史と、血液銀行の仕組みを紹介していきます。
内閣総理大臣銃撃事件をきっかけに全国へ広まった輸血
まず前提として、日本における輸血の始まりを解説します。世界初の輸血が行われたのは1667年のフランスでした。しかし、このとき輸血されたのは子羊の血だったため、患者は死亡してしまいます。人間同士による輸血が世界で初めて成功したのは1825年のイギリスでした。その後、血液型の発見や抗凝固剤の開発が進み、大正8年(1919)に医療行為の一環として日本へ輸入されます。しかし、当時の日本人にとって輸血は心理的ハードルが高く、一部の例外を除いて普及していませんでした。その状況を変えたのが、昭和5年(1930)に起きた濱口雄幸首相の暗殺未遂事件です。東京駅で凶漢に銃撃された首相は危篤状態に陥るものの、東京帝国大学の塩田教授が駅長室で施した輸血処置が見事に成功し、一命を取りとめます。この一件が新聞で大きく報じられたことで輸血に対する世間の偏見が払拭され、一般の病院でも行われるようになりました。
とはいえ、当時は至ってお粗末なもの。現在はバッグに入った血液を点滴で輸血しますが、当時は患者のベッドの隣に血液提供者を横たえ、注射器で採血した血をそのまま注入する「枕元輸血」が主流だったのです。今の感覚だとちょっと考えられないですね。
そもそも提供者がいなければ輸血は行えません。そこで昭和11年(1936)に「日本輸血普及会」が設立され、血液の提供者を広く募るようになりました。当時の相場は1回の売血で150円(現在の価値に換算すると約15万円ほど)とかなりの高額だったため、生活のために血を売る人々が現れます。昭和19年(1944)の読売新聞には、こうした血の売買を生業とする「吸血業」を批判する投書が掲載されるなど、当時からすでに社会問題化しつつあったようです。
復員兵が集った「血液銀行」の急速な拡大と杜撰な実態
昭和23年(1948)、東大病院で悲惨な医療事故が起きます。枕元輸血が原因で、患者が梅毒に感染してしまったのです。マスコミがこれを大きく取り上げた結果、GHQは日本政府に早急な感染症対策を指示。厚生省は日本赤十字社や日本医師会と連携し、安全な保存血液を供給する機関の設立へと動き出しました。こうして昭和27年(1952)に誕生したのが、日本初の官営血液銀行「血液銀行東京業務所」(現在の赤十字血液センターの前身)です。
昭和27年といえば、敗戦から7年が経過した時期。度重なる空襲で焼け野原となった街には、なおも多くの復員兵や浮浪者があふれていました。彼らは自ら血液銀行を訪れ、血を提供する見返りに報酬を受け取ったのです。官営の血液銀行では年齢確認や健康診断が実施され、病気のある人は門前払いされました。
しかし昭和30年(1955)ごろには、血液銀行は全国37か所に急増し、営利目的の民間企業も相次いで運営に乗り出してきます。水木しげる生誕100周年を記念して制作された映画 『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の冒頭には、主人公・水木が勤務する「帝国血液銀行」の階段に腰掛ける、衰弱しきった復員兵が出てきます。察するに自らの血を売りに来た姿を描いたシーンでしょう。背広姿の水木は事務方の人間で、採血担当は別にいることが窺えます。
民営の血液銀行は提供者の検査と血液の管理が杜撰なことで知られていました。しかし金払いだけは良かったので、手続きが厳格な官営の血液銀行利用者は徐々に減っていきます。もちろん「売血」や「買血」の表記は使わず、「有償採漿」の建前を用いて提供者を集めました。
売血の悲哀は文学にも描かれています。古くは昭和11年(1936)、平林彪吾が売血をテーマにした短編小説『輸血協会』を発表。これは妻子持ちの貧乏作家が生活費の足しに血を売りに行く物語で、背に腹は代えられず、血を切り売りする悲哀が伝わってきます。
ライシャワー事件で表面化した「黄色い血」問題
こうした売血の悪習に終止符が打たれたのは、敗戦から20年近く経った昭和39年(1964)のことでした。きっかけは3月24日に発生した「エドウィン・O・ライシャワー駐日米大使襲撃事件」です。統合失調症の青年にナイフで刺されたライシャワー大使は、搬送先の病院で緊急輸血を受け、「私の中に日本人の血が流れることになった」と回復後に感謝を述べました。ところがその後に体調を崩し、ウイルス性肝炎を患った挙句、肝硬変になってしまったのです。
実はライシャワー大使に輸血されたのは、病院が血液銀行から買い上げた「黄色い血」でした。黄色い血とは、売血行為の繰り返しによって赤い血球部分が薄まり、黄色い血漿部分で占められた低品質の血液のことで、言うまでもなく輸血には不適切。最悪な場合、死に至ります。
幸い3か月の入院を経てライシャワーは回復したものの、この事件を機に売血が問題視されはじめ、結果として国内における輸血用血液は、日本赤十字社が献血で補うことが閣議決定されたのでした。
日本ブラッドバンク設立者は「731部隊」の出身だった
日本で最も輸血技術の研究に積極的だったのは軍部、主にかつての陸軍軍医学校でした。軍医に求められたのは、傷病兵を一日も早く戦線へ復帰させることであり、輸血はその重要な一手段と見なされていたのです。そのため軍医学校では効率的な輸血方法が研究され、悲しいことに捕虜を使った人体実験までもが行われました。
のちに大手医薬品メーカーとなる「日本ブラッドバンク」の設立者・北野政次も、旧陸軍の「731部隊」幹部だった人物です。
東京帝国大学の医学博士だった彼は、設備や提供者が不足している最前線でも輸血を行えるよう、凍結乾燥技術を用いた「乾燥血漿」の開発に取り組みました。同社は朝鮮戦争の際、米軍に輸血用血液や血漿を納入することで急成長を遂げます。北野は戦犯として裁かれることなく91歳で天寿を全うしましたが、戦争と医療の暗部を考えると複雑な思いを抱かざるを得ません。
なお、「日本ブラッドバンク」は昭和39年(1964)に「株式会社ミドリ十字」へと社名を変更しますが、のちに薬害エイズ事件を引き起こすことになります。
おわりに
以上、戦前から戦後にかけての日本における「売血」と「血液銀行」の歴史をご紹介しました。ライシャワー事件や薬害エイズ事件が物語るように、輸血は人を生かす技術であると同時に、扱いを誤れば命を脅かす刃にもなります。そうした歴史の教訓を胸に刻み、日頃から体調を整えたうえで、安全な献血に協力していきたいものですね。





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