「零戦の後継」になれなかった悲運の試作機たち…なぜ日本はアメリカに技術で敗れたのか?
- 2026/08/14
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もちろん、量産が決まって戦場へ投入された戦闘機・爆撃機も存在します。しかし実際にはほとんどのケースで試作機だけが製造され、もしくは試験飛行の段階で開発が断念されたのです。
なぜ日本はアメリカに立ち遅れてしまったのでしょうか。その理由を解き明かしつつ、もし実戦に投入されていれば、戦況を左右したかもしれない試作機についてご紹介します。
致命的だった「排気タービン」開発の遅れ
戦争ほど科学技術の進歩を加速させるものはありません。第二次世界大戦中に次々と開発された戦闘機は、第一次世界大戦時と比べて速度は3倍となり、実用高度も亜成層圏から成層圏へと格段に上昇しました。飛行機を浮かせる揚力は空気によって生み出されますが、同時に速度を阻む抵抗となるのも空気です。そのため、より速度を出すには、大気密度が低い高空を飛ぶ必要がありました。
しかし、内燃機関(エンジン)に頼る当時の飛行機は、空気中の酸素を取り込んでパワーを得る仕組みです。そのため、空気が薄い高空ではどうしても出力不足に陥ってしまいます。そこで開発されたのが、取り込んだ空気を圧縮してエンジンに送り込む技術でした。
ただし、そのままだとガソリン燃焼の発生カロリーのうち、半分程度が空中に放出されてしまいます。この無駄をなくすため、排気の熱を再利用した上で、圧縮機の駆動力を得る技術が開発されました。これがいわゆる排気タービン(ターボチャージャー)です。
太平洋戦争中、日本でも排気タービンの研究は進められていたものの、完全にアメリカに大きく後れを取っていました。エンジンや機体の開発が遅れに遅れ、ようやく排気タービンを備えた試作機が完成したのは、昭和18年(1943)12月のことです。しかし、その頃には優秀な排気タービンを搭載したアメリカのB-29爆撃機がすでに実用化されており、もはや太刀打ちできる状況ではありませんでした。
いくら軍が「〇年〇月以降の戦闘機には排気タービンを装備する」と通達を出したところで、アメリカとの技術格差は歴然です。やがて戦争末期には、「震天制空隊」と呼ばれる空中特攻部隊が編成され、いたずらに多くの尊い命が失われる結果となったのです。
新型機開発を阻んだリソース不足
日本が新型機を計画通りに開発・投入できなかった最大の理由、それは技術・物資・人的資源をはじめとするリソースが不足していたからです。層の厚い技術者陣と圧倒的な経済力を誇るアメリカは、次々と先進的な量産機を開発・投入することが可能でした。一方の日本は、アメリカの技術革新に全く対抗できず、すでに陳腐化しつつあった既存機の改修に追われ続けました。せっかく優秀な技術者がそろっていても、新型機の開発に専念できなかったわけですね。
さらに「一機でも多くの航空機を戦場へ」という考え方が、新機種の開発を妨げました。ある事例を挙げてみましょう。
昭和19年(1944)4月、富士写真フィルム株式会社が、自社の飛行機である「富士写真号」を海軍に献納した際に命名式が執り行われたのですが、登壇した小田原市長・益田信世はこう述べたそうです。
「造船に時間を要する大型軍艦よりも、国民が一丸となって航空機を増産すべきだ」という強い危機感の表れといえます。この年に、日本の航空機生産数が2万8,180機と、過去最高の数字を叩き出した点から見ても、いかに既存機の製造に注力していたのか、良くわかるところです。
しかしその結果、日本は新型機の開発で決定的な遅れをとり、結局は既存の航空機で戦い続けざるを得なくなり、ますます戦局が悪化していったのです。
実用化に至らなかった試作機たち
ここからは、実用化に至らなかった代表的な試作機を見ていきましょう。幻に終わった零戦の後継機「烈風」
まずは零戦の後継機として開発された艦上戦闘機「烈風」です。
米軍機の進化によって次第に零戦の優位性が失われていく中、烈風の開発は遅れに遅れました。本来なら昭和18年(1943)初頭には戦場へ投入される計画でしたが、開発は先送りにされてしまったのです。
その理由として、零戦の改修に時間を取られたこと、アメリカ軍戦闘機に対して互角以上に戦えたことが大きかったのでしょう。ようやく開発計画が軌道に乗ったのは昭和17年(1942)のことです。
当初、搭載するエンジンは2種類が候補に挙がったものの、最終的に三菱重工が推すA20(のちの「ハ43」)の採用が決まります。テスト飛行で最高速度629キロ、高度6千メートルまでの上昇時間は6分5秒という高性能を叩き出し、改めて「烈風11型」として制式採用される運びとなりました。
しかし、量産に向けた歩みは試練に見舞われます。昭和20年(1945年)3月の昭和東南海地震による被害や、その後の空爆によってエンジン工場が致命的な打撃を受けたのです。結局、量産1号機が完成する直前に終戦を迎えてしまい、烈風が実用化される機会は失われました。仮に量産化に漕ぎつけたとしても、すでに連合艦隊は壊滅状態にあり、烈風を載せるだけの空母もありませんでした。
斬新なデザインと究極の性能を目指したレシプロ戦闘機「震電」
第二次世界大戦中、プロペラ(レシプロ)機の性能向上は構造上の限界に達しつつありました。そこで日本海軍は、従来の概念を打破する革新的な機体の開発に乗り出します。それが「エンテ式(前翼型)」戦闘機でした。エンテ式とは、主翼の前方に小翼(前翼)を配置し、エンジンとプロペラを機体後部に置く独特の構造です。機首にプロペラがないぶん、機体先端を絞ることで、空気抵抗を低減させる効果がありました。また前方からプロペラの風を受けないため、速度の飛躍的な向上が期待されたのです。
この画期的な機体開発を委託されたのは、大手メーカーではなく、規模の小さな九州飛行機でした。大手メーカーが新型機の開発や既存機の改修で過密状態にあったこと、そして異例の構造を持つ機体の開発に慎重だったことが背景にあります。
新型機の開発は昭和18年(1943)7月から始まり、さまざまな問題点を解決しながら、翌年6月から試作機の製造に着手。この直前に「震電」と命名されています。
それから約1年後に試作1号機が完成し、昭和20年(1945)8月3日には震電の初飛行が実施されました。プロペラが地面に接触するというトラブルはあったものの、合わせて3度の試験飛行が行われ、飛行時間は45分を数えたといいます。ところが間を置かずして終戦となり、性能テストすら実施されないまま、震電はその役割を終えたのです。
計算上における震電の性能は、最高速度750キロ、8千メートルまでの上昇速度10分40秒、上昇限度は1万2千メートルと想定されていました。さらに強力な30ミリ機関砲4門を備える予定だったようです。もし実用化されていれば、高高度を飛ぶB-29を迎撃する決め手となったことでしょう。
破天荒な機体デザインでも…高性能だったかも知れない巨大戦闘機「キ94-Ⅰ」
設計者とは、時に常識から逸脱して奇抜なデザインを好むもの──それを具現化したのが、日本陸軍のキ94-Ⅰという戦闘機です。昭和18年(1943)初頭、陸軍は新たな高高度防空戦闘機の要求計画を提示しました。これに応えたのが立川飛行機で、長谷川技師を中心とするチームが設計を担当したようです。
その機体構造ですが、まず中央胴体にコクピットを配置し、その前後に「ハ211」エンジンを串型(前後並列)に配置しました。さらに左右の主翼から後方へ2本のテールビームを伸ばし、水平尾翼は左右のビームを繋ぐように連結するという形状を採用したのです。
よく似た形状ですと、アメリカ陸軍のP-38戦闘機が存在しますが、キ94-Ⅰほど奇抜ではありません。もちろん冗談でも何でもなく、真面目に検討した結果、このようなデザインになったと考えられます。
後発メーカーであった立川飛行機は、自社の技術力をアピールするため、驚くほど高いレベルの目標性能を陸軍に提案したようです。それは最高速度780キロ以上、1万メートルまでの上昇時間が9分56秒というもの。さらに1万4千メートルまで上昇が可能という、大風呂敷を広げました。
これには陸軍側も困惑しますが、売り込みがあった以上、審査しないわけにはいきません。昭和18年(1943)末に、提示されたモックアップ(実物大の模型)を審査した結果、多くの問題点が見つかったようです。
パイロットの脱出時に、コクピット後方のプロペラに衝突する可能性があること。排気タービンの装着位置に無理があること。さらにはパイロットの習熟には特別な訓練が必要になることを指摘し、立川飛行機に改善を求めました。
おそらく陸軍としても、このような奇抜な航空機は持て余すしかなかったのでしょう。とはいえ、立川飛行機側にとっても大真面目に研究・検討した計画でしょうから、この評価は受け入れがたい面があったかもしれません。結局、キ94-Ⅰは審査のみで、開発計画は中止となってしまいました。もし順調に試作が進めば、昭和19年(1944)の年末には、初号機が完成していたと考えられます。
終わりに
太平洋戦争末期、多くの試作機が初飛行・初試験まで漕ぎつけました。しかし終戦によって開発計画は中止に追い込まれ、それまでの努力は水泡に帰しました。しかし、技術者たちの血と汗の努力が無駄だったとは思いません。敗戦によって日本の航空産業は衰退するものの、長年培われてきた技術は、戦後復興や産業振興に役立ったのですから。そんな先人たちの偉業に敬意を表したいと思います。




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