「日赤の父」佐野常民のもう一つの顔——万博体験が拓いた東京国立博物館への道
- 2026/10/23
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佐野常民(さの つねたみ)といえば、日本赤十字社の創設者として広く知られている。西南戦争で負傷者救護のために博愛社を設立し、後に日本赤十字社へと発展させた人物だ。その功績はあまりに大きく、歴史の教科書でもそうした側面から語られることが多い。
しかし佐野には、もう一つの顔がある。万博を見続け、博覧会と博物館を一体のものとして構想し、その建言によって東京国立博物館の出発点を開いた人物としての顔だ。日本赤十字社の陰に隠れたその功績を、彼と万博との関わりから辿ってみたい。
しかし佐野には、もう一つの顔がある。万博を見続け、博覧会と博物館を一体のものとして構想し、その建言によって東京国立博物館の出発点を開いた人物としての顔だ。日本赤十字社の陰に隠れたその功績を、彼と万博との関わりから辿ってみたい。
佐賀藩士が見た万博
佐野常民は肥前佐賀藩の出身だ。佐賀藩といえば、鍋島直正のもとで蘭学や西洋技術を積極的に取り入れた藩として知られている。長崎警護を通じて西洋の情報に触れ続けた土壌が、佐野という人物を育てた背景にある。慶応3年(1867)、幕府はパリ万国博覧会に参加した。この万博には、幕府の田中芳男、薩摩の町田久成、そして佐賀の佐野常民など、後に日本の近代化を背負う面々が渡航していた。彼らは明治維新後にそれぞれ新政府で博覧会行政を担い、パリ万博で得た経験を日本の制度づくりへ生かした。パリ万博は、日本人が近代的な「展示」という概念に直接触れた最初の機会だったのだ。
佐野は、農業・教育・道路・林業・貿易・博物館など多岐にわたる分野でヨーロッパの状況を記録し、帰国後に詳細な報告書を提出している。単なる見学にとどまらず、観察と記録を使命として精力的に動いていた。
博覧会から博物館へ
明治4年(1871)、大学南校物産局によって博覧会が開催された。さらに翌明治5年(1872)には、文部省博物館の主催により湯島聖堂大成殿を会場として博覧会が開かれる。皇室ゆかりの御物、化石、電信機、神道関係資料のほか、名古屋城の金鯱(きんしゃち)や生きたサンショウウオなども公開されたこの博覧会が、我が国の博物館の先駆けとされており、東京国立博物館の出発点もここに置かれている。
佐野は、博覧会と博物館の趣旨を同一のものと捉えていた。彼は次の言葉を残している。
「夫(それ)博覧会は博物館と趣旨を同くするものにして実に国家富源の源人物開明の基」
しかしこの二つを一体として考えていた背景には、実務的な理由があったとも考えられる。博覧会は期間限定の見本市だ。世界中の最先端の技術や工芸品が一堂に集まるが、会期が終われば散り散りになってしまう。
そこで佐野が構想したのは、その展示物を常設で見られる場所——職人や技術者がいつでも訪れて学べる「常設のショールーム」としての博物館だったのではないだろうか。博覧会で集めたものを、制度として定着させる。その受け皿こそが博物館だという発想である。
ウィーン万博という転機
明治6年(1873)、佐野は理事官としてウィーン万国博覧会に参加した。
このとき佐野は、ウィーン万博への参加目的を五つ挙げて太政官に提出している。その中には「博覧会の参加を契機として大博物館を設置し、国内の近代産業を育成するために、将来国内において博覧会を開くことを目標とする」という、博物館に関する明確な構想が含まれていた。
帰国後の明治8年(1875)、佐野は16部96巻にも及ぶ『ウィーン万国博覧会報告書』を政府に提出する。その博物館部において、ゴットフリート・ワグネルに「東京博物館創立の報告」「芸術百工上美術博物館ニ付イテノ報告」を作成させ、日本における近代博物館建設の必要性を強く訴えた。
ここで注目したいのは、佐野がワグネルに「芸術百工上美術博物館」の報告を書かせた意図である。ワグネルはドイツ人の化学者で、日本の工芸品の品質向上に深く関わった人物だ。彼に報告を依頼したのは、佐野が博物館を単なる展示施設としてではなく、日本の工芸品を西洋の美術市場で通用する水準へと引き上げ、輸出振興を図るための拠点として位置づけていたからと考えられる。
現代で言えば、海外の専門家を招いてブランド戦略の報告書を作らせるような試みだ。
イギリスの博物館を模範に
さらに佐野が模範として提示したのは、イギリスのサウス・ケンジントン博物館(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)だった。サウス・ケンジントン博物館をモデルにする理由として、佐野は二つの点を挙げている。
第一に、この博物館が近代の美術工芸品や産業機械類を展示し、出品者に実演まで行なわせることで、近代の工芸・工業・農業の発達を目指して考案された施設であり、当時の日本が抱えていた課題と合致していた点。
第二に、同館を作り出したイギリスが、1840年前後に産業革命を経て、当時世界最強の国力を誇る国であり、日本の近代建設の究極のモデルであった点だ。
佐野の眼差しは、博物館を単なる文化施設としてではなく、明確に国家の産業政策と結びつけて捉えていたのである。
大久保利通を動かした建言
佐野が提起した殖産興業路線に沿う博物館の建設方針は、当時の政府の実権者である内務卿の大久保利通に認められた。明治8年(1875)、大久保の名で、佐野の報告書とほぼ同文である「博物館之義」が太政官あてに上申された。これを受けて、博物館は文部省から内務省へと移管されることになる。この移管の意味は大きい。文部省は教育・学術を担う省だが、内務省は経済・産業・殖産興業を主導する省であったからだ。つまり、博物館は単なる「お勉強のための施設」ではなく、「国の産業を立て直すための実戦拠点」として位置づけられたのだ。
明治初期の日本にとって、殖産興業はまさに国家の生存戦略だった。欧米列強に追いつかなければ植民地化されかねない、という強い危機感が政策の底流にあった。博物館をその中枢に置いたのは、工芸品の品質を高め、輸出産業を育て、国として稼ぐための施設として機能させることを想定していたからである。佐野の構想は、こうした時代の要請と正確に噛み合っていたのだ。
おわりに
現在、東京国立博物館の公式サイトには、佐野常民がウィーン万博報告書において、ワグネルに東京博物館創立の報告を作成させた歴史が明記されている。また、学芸員資格の認定試験にも佐野の名前は登場する。専門家の間では知られた事実だが、一般的な知名度では「日本赤十字社の創設者」としての顔が圧倒的に上回る。日本赤十字社創設の功績が疑いなく大きいことは言うまでもない。しかし、万博を観察し続け、博覧会と博物館を一体の構想として持ち帰り、大久保利通を動かして制度化への道を開いた人物として捉え直すと、佐野常民の立体的な実像が浮かび上がってくる。
博覧会は一度きりの催しでは終わらない。展示品を集め、保存し、学びへ変える仕組みとして博物館へ受け継がれた。その発想を制度として描き出したキーマンの一人が佐野常民だったのだ。



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