【ブラッサム】宇野千代が生母を思い出さなかった理由…継母リュウが注いだ深い愛情とは?

  • 2026/10/20
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 宇野千代といえば、恋多き作家として知られています。しかし、その奔放な人生の土台には、15歳で45歳の男性に嫁ぎ、数々の苦労を背負いながらも明るく生き抜いた継母・リュウの存在がありました。

 血のつながりはなくても、誰よりも深い愛情で千代を育てたリュウ。母娘の絆は、千代の性格や恋愛観、そして生き方にまで大きな影響を与えたのです。今回は、宇野千代が生涯慕い続けた継母・リュウの人物像に迫ります。

15歳で45歳の男に嫁いだ継母・リュウ

 明治32年(1899)7月13日、宇野千代の生母トモが病のため23歳で亡くなり、1歳7カ月だった千代は高森(現・岩国市)にある父の生家に預けられました。

 2歳半のときに生家へ戻りますが、そこには父が迎えた若い後妻・佐伯リュウの姿がありました。千代はリュウを実母だと信じて育ちます。

「このとき、父は45歳、母は17歳であった。いま流に数えれば、母の齢は15歳である。この父と母との間がしっくり行っていたかどうかは分らない。」
『女の日記』より

 30歳もの年齢差がある結婚だったうえ、夫の俊次は生涯一度も働くことのなかった放蕩無頼の人物でした。

 ある日、暴君のような夫の振る舞いに耐えかねたリュウは、夜更けに家を出て実家へ逃げ帰ります。千代は突然いなくなった母を求めて泣き叫びました。見かねた近所の女性が千代をおぶって4kmほど離れた川下村にあるリュウの実家まで連れて行きます。

 「おかか、おかか」と泣く千代の姿を目にしたリュウは、そのまま宇野家へ戻りました。その後、5人の子どもを産み育てたリュウは、千代が成長してからも次の話をよくしたそうです。

「あのとき、お前が迎いにおいでざったら、わしゃア、この家には戻らざったのに。」
『女の日記』より

 母親が笑いながら語るその様子から、温かな愛情を感じ取った千代は、それが決して自分を恨む言葉ではなかったことを悟りました。

「多くの弟妹たちを生んだ母は、私を恨む替わりに、自分の運命を耐え抜き、あるいは甘受した」
『生きて行く私』より

「父は母にとって、最悪の良人(夫)であった」
『女の日記』より

貧しさを恥じず、朗らかに生きた継母

 大正2年(1913)、千代が15歳のときに父親が亡くなり、家と多額の借金が残されました。リュウの苦労は夫が亡くなっても続きます。

「母の生涯は誰の眼にも、不幸そのものに見えた」
『女の日記』より

 ただ、口やかましい暴君のような父親から解放されたことで、家族は自由を得たといいます。リュウも今まで禁じられていた浪花節を聞きに行くようになり、洗濯をするときに唄を口ずさむようになりました。彼女の歌声は美しく、自分自身の声に聞き惚れているようだと千代には思えたそうです。

 その後、リュウは家計を助けるため、「義済堂」という岩国藩士救済機関の工場へ働きに出るようになりました。まだ夜も明けぬうちから起きて弁当箱に冷飯を詰め、子どもたちを起こさぬよう、そっと家を出ていきます。

 千代は「自分が通う女学校の学費を稼ぐために母が働いているのだ」と思っていましたが、リュウの考えは違っていました。

「何の、お前の学校のためかいの。わしゃあ、唄を歌うのが好きでのう。いつでも糸をとりながら、声を上げて唄を歌うたもんじゃが、みんなが、わしの声に聞き惚れてのう、それが自慢で、糸とりに行ったんでよ」
『生きて行く私』より

 笑いながらそう語る母の姿を、千代は生涯忘れませんでした。

 リュウは工場勤めのほかにも、野菜を育てて売ったり、家財を処分したりして家計を支えます。また、新聞小説を近所の煮売り屋のお内儀に読んで聞かせることもありました。

 新聞には「嫁ヶ淵」や「里見八犬伝」などの連載小説が掲載されており、それを読んで聞かせるのです。リュウは時々節をつけて語ることもあり、ここでも彼女は自分の声に聞き惚れていたそうです。

 お内儀はいつも「面白かった。明日の続きが楽しみだ」と満足そうに言い、お礼として売り物のお菜を丼に入れてくれたり、ときにはお金を渡してくれたりしました。

 帰りの足取りも軽く、唄を歌いながら帰ってくるリュウには、貧しいから仕方なくやっているという気持ちは毛ほどもありませんでした。それを恥だと思うこともなかったのです。

 そんな母の姿を、千代は次のように述懐しています。

「私もまた、そう言う母を見て、わが家の貧しさのせいでそうしているのだ、などとは夢にも考えず、ただ母は、彼女自身の愉しいと思うことのためにだけ、そうしているのだ、と思うのであった。人はみな、自分の愉しいと思うことをするときには、端から見ても、どんなに朗らかな様子をしていることか。」
『生きて行く私』より

夫と娘をただ見つめることしかできなかったリュウ

 大正3年(1914)、16歳で岩国高等女学校を卒業した千代は、川下村の小学校の代用教員として働き始めました。

 おしゃれに目覚めた千代は、出勤前に40分もかけて念入りに化粧をするようになります。化粧ノリをよくするため、起床するとすぐに湯気を顔に当てる娘のために、リュウは毎朝ご飯を炊くよりも先に、釜いっぱいの湯を沸かしてくれました。

 18歳のとき、千代は同僚の男性教師に恋をしました。しかし、二人の恋は学校だけでなく町じゅうの知るところとなってしまいます。

 当時の学校では同僚同士の恋愛がご法度だったため、千代だけが学校を辞めることになりました。「ここにはいられない」と感じた千代は、京城(ソウル)で女学校の教師をしていた恩師を頼り、海を渡る決意をします。

 千代はリュウに心配をかけまいと、「来学期から京城で働く」とだけ伝えました。リュウは娘を気遣い、出発するなら誰の目にも触れない夜明け前の船に乗るのがいいだろうと言います。

 出発の日、「風邪をお引きなよ」、そう言って暗い岸辺に立ち、いつまでも見送ってくれた母の姿を千代は忘れることができませんでした。

 リュウは、千代が免職されたことを知っていました。それにもかかわらず、何があったのか、なぜそんなことになったのかと問い質すことも、遠い所へ行くのはやめた方がいいと引き留めることもしませんでした。

 母・リュウは、千代が受けるであろう世間の風当たりを、自分も一緒に受ける覚悟でいたのです。

 生涯にわたって、リュウは千代の人生に干渉することはありませんでした。千代の行動はリュウにとって、

「あの亡くなった良人(夫)のすることは、それがどんなに不条理であったとしても、ただ、遠くから見守っているしかなかった」
『生きて行く私』より

ことと同じだったのでした。

 父親譲りの気性を持つ娘をひと言も責めることなく、彼女は静かに見守り続けたのです。

千代を「可愛げのない女」にした継母との親子関係

 リュウは、千代と実子とを同じようには育てませんでした。とはいえ、一般に想像される継母と継子のような関係ではありません。

 兄弟姉妹の中で千代だけが特別待遇で、食事の際も一番良いものを口にし、風呂も最初に入っていました。幼い千代は、その区別を当然のことと受け止め、疑うことなく従っていたといいます。

 常に与えられ満たされて育った千代には、母親に何かをねだったり、甘えて泣いたりする経験がありませんでした。 長男のように特別扱いされた影響もあってか、リュウに対して息子が母親に抱くような感覚を持っていたようです。

 そして、こうした母親との関係が一般的な女性像とは異なる気質を作り上げ、自分は男性から見て可愛げのない女性になったのではないかと、千代は考えるようになります。

「私はどの結婚生活においても、一度として、相手に何かを求め、何かをせがんだと言う記憶がない。一度として、膝により縋って、よよと泣き崩れたと言う記憶がない。」
『女の日記』より

 男が好む女とは、「ときには間抜けなこともして、よよと泣いてくれる女」であり、相手に相談もせず、何事も自力で解決してしまう自分は、男性にとって可愛い女性ではなかったのだろうと考えたのです。事実、千代と別れた男性たちが後に伴侶として選んだのは、みな自分とは対照的な可愛い女性だったといいます。

 千代は大人になってから、自分と母親のような関係は本当の母子の間にはあまり見られないものだったと知りました。それでも彼女は、そうして形成された自分の性格を気に入っていたようです。

「私はそれに気がついて、確かに女ではあるが男のような、自分のこの性情が、あの懐かしい母が、私の上に培ってくれたものであることを思うと、なかなか、捨て難いものと思うのである。」
『女の日記』より

おわりに

 昭和26年(1951)、千代が54歳のとき、リュウが亡くなりました。67歳でした。生家で暮らしていた継母の体調が悪化したため、千代は青山の自宅へ迎え入れ、そこでリュウは息を引き取りました。

 宇野千代は晩年まで、死に別れた生母への恋しさや懐かしさを抱いたことがなかったといいます。それは、リュウが「あまりに好い人」で、自分を大切に育ててくれたからだと振り返り、

「こんな継母がいたのであるから、どうして私が、生母のことなど思い出したりするひまがあっただろう。」
『生きて行く私』より

と述べています。

 たとえ血のつながりがなくても、母・リュウは千代にとって、生母を思い出す暇を与えないほど大きな存在だったのでした。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
本好き、映画好き、歴史好きなWEBライターです。好きな作家は山本周五郎、お気に入りの映画は市川崑の「金田一シリーズ」。図書館司書の勉強中「古書」にはまって以来、明治・大正・昭和初期の市井の人々の記録や“ちょっといい話”を掘り起こすことに喜びを感じています。

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