【豊臣兄弟!】羽柴秀長は母・大政所を徳川家康の人質として差し出すことに本当に反対したのか?
- 2026/10/26
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第41回は「家康の野望」。
天正14年(1586)10月26日、豊臣秀吉に臣従するため徳川家康は大坂に到着しました。それより以前、秀吉は人質として母の大政所を徳川領国である三河に下向させています。家康は人質である大政所の三河岡崎城到着を見届けてから、上阪の途についているのです。これで安心して上阪できると家康は思ったことでしょう。
江戸後期の儒者・深田正韶編著『稽徳編』によると、秀吉が家康に「家康が上京するならば、老母を人質とする」ことを提案します。それに「神君」(家康)は同心したので、秀吉は大いに喜びました。こうして「老母」(大政所)の下向が決定したのですが、それに反対した男がいました。羽柴秀長です。
秀長は「老母を人質とすることは士の大なる恥辱ならん」と述べ、大政所を人質とすることに異を唱えたのでした。しかし秀吉はそうした異論を狭量だとして一蹴。結局、大政所は人質として下向することになったとの逸話が『稽徳編』に記述されているのです。しかし、秀長が大政所の下向に反対したとの話は一次史料にはなく『稽徳編』の記述もそのまま信用できないと見做されています。
さて、同書には家康の「秀吉が礼をもって母を人質としたのに、これを信じずして都に上らなかったとしたら(私が)秀吉を恐れているのと同じ。たとえ(秀吉側)に偽りがあったとしても私は信実である。よって後世の人々の嘲りはない」との言葉も記されています。これは、「秀吉は家康をたばかろうとしているのでは」との徳川老臣の見解に対して発せられた言葉です。




