【豊臣兄弟!】豊臣秀吉と徳川家康との戦争を回避させた立役者とは?
- 2026/10/19
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第40回は「あさひの輿入れ」。
小牧・長久手の戦い(1584年)後も徳川家康は豊臣秀吉になかなか臣従しませんでした。秀吉は家康に新たな人質を差し出すことを要求しますが、家康はそれを拒否。秀吉と再び一戦する覚悟も固めていました。秀吉もまた天正14年(1586)1月には家康を討伐する予定を立てます。
ところが天正13年(1585)11月29日、畿内を中心にした大地震が発生します。マグニチュード8の規模と推測される「天正地震」は、畿内において多数の死者を出しました。大坂にある秀長(秀吉の弟)の屋敷も倒壊します。地震による惨状は、秀吉に家康討伐を思い止まらせました。
天正14年(1586)1月下旬、三河国の岡崎城を訪問し、家康と会談した人物がいます。織田信雄(信長次男)です。信雄はかつて家康と組んで小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いましたが、既に秀吉に臣従していました。信雄は家康と会談し、秀吉と和睦することを家康に促したのです。
信雄の説得により、家康は秀吉に臣従することを決意します。これを受けて、2月に秀吉は家康を赦免するのです。「天正地震」が発生していなければ、秀吉による家康討伐が実行されていた可能性も高いでしょう。しかし、討伐の直前になって、もしかしたら、今回のように信雄が動き、家康を説得し、戦争が回避された可能性もあります。そうしたことを考えた時、信雄は実に「いい仕事」をした人物として評価されても良いでしょう。
もし秀吉が家康討伐を遂行していたら(家康が小田原の後北条氏と共闘したとしても)徳川家は危機的状況に立たされたはずです。家康方は敗れ、最悪の場合、小田原征伐(1590年)後の北条氏政のように切腹を命じられていたことも考えられます。秀吉による家康討伐の中止はその後の歴史を大きく変えたと言えるのかもしれません。





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