【豊臣兄弟!】秀吉と茶々の長男・鶴松に授けた「棄て児」の俗信と親心
- 2026/10/12
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第39回は「茶々の本心」。
天正11年(1583)4月、豊臣秀吉は宿敵・柴田勝家を滅亡に追い込みます。勝家の妻・お市の方(織田信長の妹)は夫と共に自害しますが、市は前夫・浅井長政との間に生まれた3人の娘(茶々・初・江)は落城せんとする勝家の居城・北ノ庄城から逃がしていました。3姉妹が落ち延びたと聞いた秀吉は、すぐに迎えを出して、彼女たちを安土城に入れたとも伝わります。その後、3姉妹の長女・茶々は秀吉の側室となりました。
天正16年(1588)には茶々は懐妊、翌年(1589)5月27日、待望の男子を山城国淀城で出産します。秀吉はこの赤子を「棄」(すて)と名付けました。現代人から見たら「何という名前を付けるのだ」と思いますが、これには理由があったのです。棄て児はよく育つという当時の俗信に基づいて秀吉は「棄」と名付けたのでした。子供の無事の成長を願う秀吉の想いが込められていたのです。
「棄」はその後「鶴松」と名を改めます。これは縁起の良い名です。鶴は千年と言いますし、松は長寿や不老不死の象徴であります。秀吉は書状の中で鶴松のことを「つるまつ殿」と書いたりしています。朝廷からは祝いとして、産衣や祝儀の品々が送られました。
後に会津を領することになる蒲生氏郷は祖先の俵藤太(平安時代中期の武将・藤原秀郷)が大むかでを射殺したとされる矢の根(鏃)を刀に仕立てて贈ったとされます。淀城で生まれた鶴松ですが、その後、大坂城に入ることになりました。鶴松は秀吉の後継者として養育されるのです。ところが鶴松は天正19年(1591)8月、夭折することになります。その年の1月には秀吉の弟・秀長が病で亡くなっていました。親族を2人も亡くした秀吉の悲しみは大きいものでした。





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