かつて日本最大の学生街だった神田・御茶ノ水界隈を歩いて想う──「学生街」という言葉、いまは死語なのか?
- 2026/09/07
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ここは「学生の街」だと、誰もが察する雰囲気を醸す場所。たしかに、見かけなくなっている。ないモノは日常会話から消えて死語化するか、歴史用語になってしまうのが常だ。仕方のないことなのかもしれない。
だが、ここで不思議に思うことがある。学生街が最もにぎわった1970年代、日本の大学生総数は約141万人だった。2024年にはそれが約296万人と2倍以上に増えているのだ。
むしろ、学生数にあわせて学生街も拡大していそうなものだが。それが何故、消えてしまったのか?その謎を紐解いてみようと、かつて日本最大といわれた神田・御茶ノ水の学生街へ行ってみた。
東京最古にして最大の学生街の今は?
JR御茶ノ水駅を降りる。神田川の深い谷の対岸に湯島聖堂の甍が見える。江戸幕府の最高学府だった昌平坂学問所の跡地であり、神田・御茶ノ水の学生街の歴史もここから始まった。
維新後になると、こんどは神田川右岸に広がる駿河台の丘陵地に専門学校や予備校が続々と開校する。駿河台は武家地で大身の旗本や大名屋敷が多く、学校を設置するのに必要な敷地が確保しやすかったという。さらに、大正や昭和の時代には専門学校が規模を拡張して大学に。この頃からすでに学生相手の食堂や下宿、喫茶店、古本屋が軒をつらねる日本最大の学生街が形成されていた。
戦後の1960〜1970年代頃には、東京に住む大学生の約3割が駿河台から神田にかけての界隈に集まっていたとか。そして、最盛期だったこの頃に「神田カルチェ・ラタン闘争」と呼ばれる戦後史に残る事件が起きた。
1968年6月21日、中央大学や明治大学など神田・駿河台周辺の学生を中心とする集団が、突如、バリケードで明大通りを封鎖。機動隊と衝突して大騒乱を巻き起こした。この同年5月にはフランスのパリで、ベトナム戦争に反対する学生や労働者がカルチェ・ラタン地区を占拠する大規模ストライキを起こしている。騒ぎはそれに触発されたもので「神田を日本のカルチェ・ラタンにせよ」というのが闘争のスローガンだった。
当時の地図を見てみる。明大通りを南へ下り、左手にあるYMCAと主婦の友社ビル(現在は日本大学お茶の水キャンパス)の道を100mほど入ってゆくと、道の両側には中央大学のキャンパスが広がっている。1978年に八王子へ移転する前までは、ここに2万数千人の学生が学んでいたという。
道の右側には、コの字の形の校舎に囲まれた中庭を学生たちが行き交う、かつての中央大学を象徴する独特の景観があった。いつもは学生たちの笑い声が響く、穏やかな雰囲気につつまれた場所なのだが。この日は違った。ヘルメット姿に鉄パイプや角棒で武装した約700人の学生が集まり「ベトナムに平和を!」とか「70年安保粉砕!」などスローガンを口々に叫んでいる。
そして、学生たちの興奮が最高潮に達した午後16時過ぎ、集団は明大通りに繰りだして、明大記念館前(現在のリバティータワー)や明大大学院前(現在のアカデミーコモン)、マロニエ通り(現在は、とちの木通り)と交差するあたりに、机や長椅子を積み上げてバリケードを築いて封鎖した。
これによって、御茶ノ水駅から神保町方面に通じる交通は遮断され、学生街の中心エリアには〝開放区〟ができあがる。都内各地から他校の学生たちも続々とそこに集まり、日が暮れた頃には3000人を越える規模になっていたという。
しかし、警察も黙っておらず、機動隊を出動させてバリケードを撤去しようとする。機動隊の催涙ガスや放水に対して、学生たちは歩道の敷石を剥がした投石で応戦する。信じられないのだが、内戦さながらの凄まじい戦闘が戦後の日本で起きていた。
機動隊がバリケードを撤去すれば、学生たちがまた作り直す。深夜までイタチごっこの攻防がつづいたが、夜が白みはじめた頃には、学生たちの大半は姿を消して騒ぎは収束したという。
翌朝には、いつもの平和な学生街に戻っていた。当時の大学生たちの感覚だと、学生街は大学構内と同じ自分たちの生活空間。その境界線は曖昧で、明大通りの歩道も大学構内の通路みたいに思っている。ちょっとしたイベント気分で参加した学生も、多かったのではないだろうか?
しかし、学生闘争が学外の路上にまで及んだことで、さまざまな問題が起きていた。たとえば中央線・総武線は約40本が運休し、100本近くに遅れが生じた。これによって約20万人の足に影響がでたという。
当時の警察や行政も、かなりの危機感を抱いたという。マロニエ通りがとちの木通りに名が変わったのは、ここがカルチェ・ラタン闘争の最激戦地となった忌まわしい過去を払拭するためだった。とか、そんな話を聞いたことがある。また、中央大学の八王子移転を後押しする一因となり、1980年代に本格化した大学の郊外移転にも、少なからぬ影響を与えたといわれる。
ネット社会が学生街を消滅させた!?
学園紛争の収束と入れ替わるようにして、大学の郊外移転ブームが起こった。これが学生街を衰退させた一番の原因とする声は多い。学生が消えた都心の学生街は衰退し、また、郊外に移転した大学の最寄り駅に新たな学生街ができることもなかった。郊外の大学に通う学生たちが、学校の最寄り駅付近に住むことも少ないという。みんな遠くから電車で通ってくる。それでは「学生街」は形成されない。昔の学生街には安アパートや学生下宿が数多くあり、大勢の学生がそこで暮らしていた。大学の付近で遊びと暮らしがすべて完結し、学生たちの濃い生活臭があふれている。それが、誰が見てもひと目で「学生街」と認識する独特の雰囲気を醸していたのだけれど。
郊外の大学だけではなく、首都圏に残った大学の周辺も、近年は学生たちが住まなくなっている。いや、住めなくなったというべきか。安い学生下宿や風呂無しアパートは消滅し、銭湯もなくなった。しかし、都心部のワンルームマンションは家賃が高すぎる。
結果、学生たちは実家や郊外のアパートから電車で1時間以上かけて通うようになる。また、交通網の発達で昔に比べると通学圏は格段に広がっている。
大学付近に住まなくなった学生たちの遊び場も、都内の各地に分散してしまった。かつて学生街と呼ばれた場所は、路上を歩く人種の大半が大学生で占められていたものだが。いまは御茶ノ水や神田界隈はもちろん、都内で唯一、学生街が現存しているといわれる早稲田界隈でもそれはない。
学生街に住む必要がなくなり、また、そこに居る必要もなくなった。インターネットのなかった90年代半ば頃まで、学生街の喫茶店や居酒屋は、学生たちにとって大切な情報交換の場だった。また、そこに行けば知った顔がいて話ができる大切な集いの場でもある。いまはそれもLINEやマッチングアプリがあれば事足りる。込み入った相談なら、友人よりもチャットGPTのほうが話しやすかったりもする。
考えてみれば、スマホを片時も離せなくなっている現代の大学生と同じくらいに、昔の大学生は学生街への依存が激しかったように思う。その存在価値がなくなってしまえば、そこは「学生街」という特別な場所ではなく、ただの「大学周辺」でしかない。その言葉も日常からは消えてしまう。


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