幻の「薩摩侵攻」と黒田官兵衛の最期――関ヶ原終戦後、九州で何が起きたのか?
- 2026/09/03
渡邊大門
:歴史学者
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
関ヶ原合戦後の九州戦線と「島津問題」
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わっても、九州では戦いが続いていた。徳川家康は西軍に属した大名の処分を進め、黒田官兵衛も立花宗茂ら西軍方の大名を攻めていた。そして最後に大きな問題として残ったのが、薩摩の島津氏である。関ヶ原で西軍に加わった島津義弘は、西軍敗北が決定的になると、のちに「島津退き口」と呼ばれる敵中突破を敢行し、辛くも薩摩へ帰還した。しかし、危機が去ったわけではない。家康が島津氏を討つため、薩摩へ軍勢を送り込む可能性があったからである。
義弘は桜島に蟄居して恭順の意を示す一方、徳川軍の襲来に備えた。9月17日の段階で、石田三成、宇喜多秀家、島津義弘は追捕の対象となっていた。捕縛した者には「永代無役」、討ち果たした場合には金子100枚が与えられる一方、匿った者には厳しい処分が科された。
さらに家康は、毛利輝元を先鋒として薩摩へ送り込む計画を、黒田長政と福島正則に伝えている(『江氏家譜』)。輝元の妻を人質として差し出させ、本人に出陣を迫るという厳しい内容だったが、この計画はいったん撤回された。
10月4日、官兵衛は吉川広家への書状で、島津氏と立花氏が九州へ逃げ帰ったこと、家康から両氏を討つよう命じられたことを伝えている(「吉川家文書」)。10月25日には立花宗茂が降伏し、残る最大の標的は島津氏となった。
ところが、島津氏は徳川方との交渉も進めていた。その仲介役の1人が、公卿の近衛信尹である(「島津家文書」)。近衛家と島津氏は親しい関係にあり、信尹自身も家康と良好な関係を保っていた。
10月7日、信尹は島津氏に家康への弁明を勧めた。これを受け、10月16日、島津義久と忠恒は寺沢正成に書状を送り、西軍に加わったのは義弘の独断であり、自分たちは関知していなかったと釈明した(「島津家文書」)。そのうえで、家康に二心はないとして許しを求めたのである。
家康はなぜ「薩摩侵攻」を中止したのか
義弘も別のルートから弁明を試み、その仲介役となったのが黒田長政だった。11月4日、義弘は長政に書状を送り、関ヶ原合戦の詳細を十分に知らされていなかったこと、家康から受けた厚恩を忘れたわけではないことを説明した(「黒田家文書」)。さらに、豊臣秀頼への忠節から出陣したのであり、奉行衆から命じられた以上、君臣の道に背くことはできなかったと弁明した。家康に敵対する意思はなかったと強調したのであるが、苦しい説明だったといえる。
こうした動きと関係したのか、官兵衛は加藤清正に対し、薩摩への攻撃をいったん取りやめるよう要請した(「黒田家文書」)。清正もこれに応じている。
11月12日、家康は官兵衛に書状を送り、立花宗茂を伴って薩摩へ出陣し、加藤清正・鍋島直茂と相談して戦う計画について言及した。そのうえで、寒さも厳しいため、年内の出兵を中止するのが妥当だとの意向を示した(「黒田家文書」)。11月14日付の本多忠勝書状でも、同様の内容が伝えられている(「黒田家文書」)。
家康は島津氏を赦免すると明言したわけではなかったが、軍事攻撃はいったん見送られた。官兵衛が清正に攻撃中止を求めた背景には、家康から積極的な出兵許可を得られなかった事情があったのかもしれない。
その後、家康は義久に上洛を求めたが、義久自身は応じなかった。慶長7年(1602)4月、島津家は本領を安堵された。関ヶ原合戦から約1年7カ月後のことである。のちに、代わって忠恒が上洛した。
こうして島津氏は存続を許され、幕末・明治維新まで続いた。官兵衛にとっても、薩摩侵攻の中止によって九州での軍事行動は事実上終わったのである。
黒田家の筑前入封と「福岡」の誕生
関ヶ原合戦後、黒田長政は筑前1国52万石へと大幅に加増され、名島城(福岡市東区)を居城とした。しかし、名島城は大規模な城下町を建設するには適地とはいえなかった。そこで長政は新たな本拠地を探し、九州有数の商業都市・博多に近い福崎を選んだ。慶長6年(1601)から築城に取りかかり、福崎を「福岡」と改めた。
福岡の地名は、黒田氏がかつて暮らしたとされる備前福岡(岡山県瀬戸内市)にちなむという説が有名である。ただし、黒田氏と備前福岡との関係には検討の余地があり、地名の由来についても慎重に考える必要がある。
福岡城の築城では長政自身が縄張りなどを行ったとされ、官兵衛も助言した可能性がある。また、筑前支配にも一定程度関与していたと指摘されている。
官兵衛は太宰府天満宮近くの庵で過ごしたのち、福岡城三の丸に生活の基盤を置いた。こうして黒田氏による福岡藩支配が始まった。
黒田官兵衛が迎えた最期
慶長9年(1604)3月、官兵衛は病に倒れた。詳しい病名はわかっていない。最期を迎えた場所は福岡ではなく、滞在していた京都・伏見の黒田家屋敷だった。当時、59歳である。『黒田家譜』によれば、官兵衛は長政を呼び寄せ、自分は3月20日の辰の刻、現在の午前7時半頃に死ぬだろうと語った。そして実際に、その時刻に亡くなったという。
自らの死期を予言したような逸話だが、官兵衛を神秘化するための伝承と考えるべきであり、そのまま史実とはみなしがたい。
官兵衛は長政に、葬儀に多額の費用をかけず、仏事に専念する必要もないと遺言した。それよりも国を治め、民を安んじることこそ、本当の供養になると語ったという。
長政は自ら薬を与えるなど懸命に看病したが、官兵衛は3月20日、59年の生涯を閉じた。病床では、次の辞世を残したと伝えられている。
「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
おおよその意味は、「もはや言い残すこともない。ついにあの世へ旅立つが、その道に迷うことはないだろう。すべて成り行きに任せよう」というものになる。
戦国乱世を生き、多くの決断を迫られた官兵衛が、最後にはすべてを自然の流れに委ねようとした心境を表した歌といえるだろう。
官兵衛の遺骸は崇福寺(福岡市博多区)に葬られ、法名は『龍光院如水円清』とされた。崇福寺はのちに福岡藩黒田家の菩提寺となり、京都・大徳寺にも龍光院が建立された。
関ヶ原合戦後、官兵衛が九州で展開した最後の軍事行動。その先に予定されていた薩摩侵攻は、ついに実現しなかった。そして、そのわずか数年後、天下を駆け抜けた官兵衛も静かに世を去ったのである。





コメント欄