なぜ徳川家光は「鎖国」に踏み切ったのか? 貿易利益を捨ててまでキリスト教を拒んだ真相
- 2026/10/22
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元和9年(1623)、徳川家光は生まれながらの将軍として将軍宣下を受けました。すでに幕藩体制は盤石となり、徳川一強の時代が到来しつつありました。やがて大御所・徳川秀忠が没すると、家光は独自の政策を打ち出していきます。その代表的なものが「鎖国」です。
なぜ家光は、貿易で得られる莫大な利潤を度外視してまで鎖国に踏み切ったのでしょうか。その真相を解き明かしつつ、鎖国へ至るまでの経緯について解説していきます。
なぜ家光は、貿易で得られる莫大な利潤を度外視してまで鎖国に踏み切ったのでしょうか。その真相を解き明かしつつ、鎖国へ至るまでの経緯について解説していきます。
家康・秀忠の対外政策を踏襲した家光
日本にキリスト教が広まったのは16世紀半ば以降のことです。ルイス・フロイスやアレッサンドロ・ヴァリニャーノらイエズス会宣教師による布教の甲斐もあり、国内のキリシタンは急増しました。また、布教には権力者の理解と協力が不可欠だったため、多くの大名が洗礼を受けてキリシタンとなりました。当時、キリスト教の布教活動と貿易は密接に結びついていました。布教を認める見返りとして生糸や硝石などの貴重品が日本へもたらされ、ポルトガルやスペインとのいわゆる南蛮貿易は大きな盛り上がりを見せます。
しかし豊臣秀吉の治世を経て、日本の対外政策は警戒から弾圧へと舵を切ることになります。天正15年(1587)、島津氏討伐のため九州へ遠征した秀吉は、キリスト教の影響力が想像以上に浸透している現実に驚愕しました。
各地で寺社が破却され、仏教徒が迫害を受け、さらには日本人が海外へ奴隷として売られている実態を知ると、秀吉はバテレン追放令を発して宣教師の国外追放を命じたのです。
厳しい禁令を出す一方で、貿易に対しては寛容な態度で臨んだようです。秀吉が「黒船の商売は許す。仏教の妨げをしない者なら誰でも来てもよい」と述べているあたり、南蛮貿易による莫大な利潤は手放したくなかったのでしょう。
次の天下人となった徳川家康も、当初は貿易振興を優先するあまり、キリシタンの活動を半ば黙認しました。スペインとの関係強化を図り、浦賀開港をフィリピン総督に持ち掛けるなど、かなり穏健な態度が目立っています。
もっとも、家康もキリシタン増加に伴うリスクは承知していました。慶長18年(1613)には禁教令を発し、本格的な弾圧へと舵を切っています。
その裏にはキリシタンに対する嫌悪感があったのかも知れません。なぜなら家康の周囲にはキリシタンの家臣が多く、主君への忠節よりもデウスへの信仰を優先したからです。もし全国のキリシタンがデウスの名のもとに結集すれば、幕府などあっけなく倒れてしまうでしょう。家康にとって、もはや看過できない事態となっていたのです。
このような方針を、2代将軍・徳川秀忠も継承しました。元和8年(1622)には長崎の西坂で宣教師やキリシタンら55人を火刑と斬首に処し、「元和の大殉教」と呼ばれる大弾圧を断行。こうした徹底的な弾圧の結果、国内におけるキリシタン教団は姿を消していきました。
そして3代将軍となった家光もまた、このキリスト教禁止政策を継承し、並々ならぬ執念をもって推進していくことになります。
キリスト教を水際で阻止するための鎖国令
家光が目指したのは、「キリスト教を国内に入れない」「キリシタンと接触させない」という徹底した水際対策でした。新任の長崎奉行・今村正長へ宛てた第一次鎖国令では、特に以下の点が強調されています。- キリシタンが潜伏する場所が判明すれば、長崎奉行が指示を与える
- バテレンを密告した者には褒美を取らせる
- 布教する南蛮人を見つけたら、大村藩で留置せよ
- バテレンが乗っている船は徹底的に調べるように
これらはキリスト教禁令に基づく措置ですが、少し曖昧で抽象的な表現となっています。しかし寛永11年(1634)に出された第二次鎖国令では、家光自身のより強い意思が見えてきます。
- 九州の諸大名は、海外へ武器を輸出しないこと
- 海外からの船に宣教師が乗っていれば、絶対に上陸させてはならない
- 老中からの奉書を持つ者以外は、海外への渡航を禁じる
武器輸出については秀忠時代からの法令ですが、それ以外の文言では、キリスト教の流入を水際で食い止めようとする明確な意図が読み取れます。翌年の第三次鎖国令では、内容がさらに具体化していることに気付くでしょう。
- 奉書船の海外渡航は全面的に禁じる
- 国外にいる日本人の帰国は全面的に認めない
その背景には、奉書船を媒介とする在日宣教師への支援や、在外キリシタンとの接触が判明した事実があります。つまり、家光は海外とのコネクションを断ち切ることで、キリスト教の流入を未然に防ごうとしたのでしょう。
第四次鎖国令に至っては、「日本人と外国人の間に生まれた混血児の国外追放」が盛り込まれており、かなり徹底していることがうかがえます。
島原・天草一揆を契機に、本格的な鎖国時代へ突入する
寛永14年(1637)、幕府を震撼させる出来事が起こります。島原・天草の領民が一揆を起こし、島原半島の原城へ立て籠もったのです。
家光自身、「天草の反民どもが、邪教を唱えて一揆を企てた」と述べているあたり、これは単なる農民一揆ではなく、幕府への徹底抗戦を唱える宗教闘争に他なりません。多大な犠牲を払って一揆を鎮圧したものの、幕府が受けた衝撃は相当なものでした。そこで家光はキリスト教を禁じるのみならず、キリスト教国との関係を断ち切ろうと考えます。
当時、すでにイギリスは東アジアからインドへと進出先を変更しており、スペインも日本との貿易から撤退していました。そこで幕府は、依然として通商のあったポルトガルとの国交断絶に踏み切ります。
とはいえ、ポルトガルとは経済的互恵関係にあり、しかも最大の貿易相手国でした。断行したとして、その影響は決して小さくありません。
ここで当時のオランダ商館長クーケバッケルの日記を引用してみましょう。
「幕府の閣老はこのように述べた。今後、ポルトガル人を日本へ来させず、彼らの通交・貿易を完全に禁止しようと思う。なぜなら毎年のように宣教師を連れてきて、布教をやめないからであると」
ここで言う「閣老」とは、家光の側近だった井上政重と牧野信成のことです。彼らは続けてクーケバッケルにこう問いかけたそうです。
「将軍がポルトガルとの貿易を断絶した場合、オランダ人は日本が必要とする物を供給できるか?」
オランダにとって、ポルトガルは経済的・戦略的にも最大のライバルでした。日本における既得権益に風穴を空け、取って代わることこそがオランダの悲願である以上、クーケバッケルが断る理由などはどこにもありませんでした。
寛永18年(1641)、オランダ商館は平戸から長崎の出島へと移され、オランダと中国が日本の唯一の貿易相手国となったのです。
キリスト教国であるオランダが貿易相手として選ばれた理由は、布教活動と貿易を明確に切り離し、経済活動のみに専念したためです。また、海外に布教拠点を求めるカトリックではなく、プロテスタント教国であった点も、幕府の警戒感を和らげる要因となりました。
なお、前年の寛永17年(1640)には、貿易の再開を求めてポルトガル船が日本へ来航しています。しかし宣教師を乗せていなかったにも関わらず乗組員は捕らえられ、そのうち61人が処刑されました。
「キリスト教を絶対に入れてはならない」――これこそが、厳格な鎖国政策の揺るぎない原点だったのです。
終わりに
おそらく家光は、父や祖父からキリスト教の恐ろしさを聞かされていたのかも知れません。なぜなら幕藩体制下にあって、天皇や将軍を超える存在など許容してはならないからです。ましてやキリスト教は、仏教や神道とは異なる一神教ですから、その信仰心は強烈なものとなるでしょう。家光はその根源を断ち切るべく、貿易利潤を犠牲にしてまで鎖国へ踏み切ったに違いありません。





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