徳川秀忠の本当の死因とは?サナダムシ説を覆す新説と苦悩に満ちた最期
- 2026/08/31
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皆さんは江戸幕府2代将軍、徳川秀忠の正確な死因をご存じですか?父の徳川家康が鯛の天ぷらの食べ過ぎで亡くなったという有名な俗説がありますが、実際の死因は胃がんとされ、息子の秀忠も同じ病を患っていたのではないかと近年言われています。
今回は意外と知られていない徳川秀忠の死因と、彼の悩ましい晩年のエピソードを解説していきます。
今回は意外と知られていない徳川秀忠の死因と、彼の悩ましい晩年のエピソードを解説していきます。
晩年の秀忠は、三男・忠長の素行に苦しめられた
秀忠の晩年を語る上で外せないのが、三男・忠長の存在です。江戸幕府3代将軍には次男の家光が就きましたが、幼少期の家光は病弱で吃音があったため、秀忠と正室のお江(ごう)は才気煥発な弟・忠長を可愛がり、次期将軍に推していました。この事態を憂えて大御所の家康に直訴したのが、家光の乳母である春日局です。彼女の進言を受けた家康は忠長を贔屓する二人を咎め、家光を正式な後継者に指名しました。なお、忠長が両親の寵愛を受けた理由は、大伯父にあたる織田信長に容姿が似ていたため、とも言われています。お江の母親は信長の妹のお市なので、十分に頷ける話ですね。
しかし、忠長は成長するにつれて増長し、寛永元年(1624)には与えられた所領に満足せず、「大阪城の主にしろ」「100万石をよこせ」と主張。大御所となっていた秀忠はこの要求を突っぱね、わがまま放題の忠長を持て余すようになります。
秀忠と忠長の関係が決裂する決定打となったのが、寛永7年(1630)に賤機山(しずはたやま)で起きた「猿狩り事件」です。浅間神社に近い賤機山は殺生が禁じられており、特に野猿は神の使いとして崇められていました。にもかかわらず、忠長は制止する神主を振り切って猿狩りを強行し、1,240匹もの猿を殺戮したのです。
この罰当たりな行為に加え、帰途では駕籠(かご)の担ぎ手の尻を脇差で刺し、逃げ出したところを殺害する暴挙に及び、翌年には寺で休息中に粗相をした小姓を手打ちににするなど暴挙を重ね、秀忠を激怒させました。浅間神社は徳川家康が元服した徳川将軍家ゆかりの地であったため、その直系である忠長の行動は到底許されないものでした。
忠長の狼藉の数々を知った秀忠はただちに彼を勘当し、一切の処分を家光に委ねます。寛永9年(1632)に秀忠が危篤に陥る史実を踏まえると、忠長の度重なる親不孝が心労を掛け、死期を早めたのは否定できません。
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サナダムシが引き起こす病、御寸白(おすばく)
実は忠長が猿狩りを断行する1年前の寛永6年(1629)の時点で、秀忠はすでに病に侵されていました。左の乳の皮肉の間にしこりができ、鈍い痛みを感じるようになったのです。病状が本格化したのはこのさらに2年後の寛永8年(1631)2月。忠長の狼藉にショックを受けた忠長は、胸のしこりが再発し、激痛に悩まされるようになります。主治医の投薬やお灸も効果はなく、やがて腫瘍は背中にまで回り、全身に痛みが走るように。譜代大名の土井利勝が毎日のように見舞ったものの、一向によくなりません。
この病について『徳川実紀』には、寄生虫のサナダムシが引き起こす「御寸白(おすばく)」だったのではないかと記されています。
御寸白の語源は、サナダムシの白く細長い形状からで、見た目が「白い紐」に酷似していることに由来します。日本最古の医学書『医心方』や『今昔物語集』にも記述が見られ、当時は珍しくない病気でした。感染経路は不潔な環境で飼育された豚・鶏・牛馬などの家畜、または魚とされ、品数の多い食事をとっていた将軍が、御寸白にかかる可能性は十分ありました。
通常、サナダムシは人の腸内に寄生しますが、そこで上手く成熟できないと幼生のまま体内を移動し、脳や臓器などの別の部位に定着することがあります。そこに寄生されると細胞が圧迫・破壊され、最悪の場合は命を落とすケースもありました。秀忠の所見を鑑みるに、胸部にサナダムシが寄生したのでしょうか。
同年(寛永8年)7月30日、秀忠は胸痛の発作で倒れ、4人の医師が投薬治療に当たっています。この時は一命をとりとめたものの、12月14日の就寝中にも再び重篤な発作に見舞われ生死の境をさまよい、徳川御三家が勢ぞろいして江戸城へ駆けつける事態となりました。
秀忠が最後に公の場である御座所に姿を現したのは、寛永9年(1632)の元日。袴のみを羽織った姿で諸大名と対面し、年始の挨拶を執り行ったものの、体調の悪化は止まらず、同月23日に危篤に陥りました。そして翌日、秀忠は江戸城にて息を引き取りました(享年54)。
忠長は父の死に目に会うことさえ禁じられ、のちに改易を命じられています。なお、秀忠の正室・お江は寛永3年(1626)に54歳で没しています。秀忠が6年の歳月を経て妻と同じ年齢で世を去ったことには、不思議な運命を感じさせます。
新説浮上:秀忠の死因は「胃がん」か「狭心症」か
秀忠は死後、台徳院霊廟に葬られました。家光への遺言は「私の法会を倹約し、霊牌1基の他は新しく作るべからず」という質素なものでした。自身が成し遂げられなかった法令の整備を子に託し、志半ばで果てた最期からは、徳川の行く末を案じる大御所の責任感が浮かび上がります。では、実際のところ秀忠の命を奪ったのは寄生虫だったのでしょうか? 現代ではこの説に異議を唱える学者も多く、胃がんまたは狭心症が有力候補と見なされています。
晩年の秀忠が消化器官系を患っていたのは有名な話で、父・家康も同じ胃がんで亡くなったとされています。がんは必ずしも遺伝しませんが、がんになりやすい体質や生活習慣が引き継がれた可能性はあります。度重なる激しい胸の痛みに注目するならば、狭心症の疑いが濃厚です。
当時、心臓病がもたらす痛みは「心痛」「真心痛」と呼び分けられ、根治が望めない難病とされていました。それもそのはず、原因がわかったところで当時では手術は不可能。だからといって大御所の医者が匙を投げるわけにもいかきません。結果として誤診、あるいは保身のために効き目のない虫下しを飲ませ続け、死に至らしめてしまった……というのが現代の有力な仮説です。
日に日に痩せ衰える秀忠自身はもちろん、回復の見込みがないと知りながら虫下しを処方し続けるしかなかった医師たちの心情を思うと、胸が痛むものがありますね。
おわりに
以上、徳川秀忠の死因にまつわる考察と解説でした。長らく「寄生虫」とされてきた死因ですが、近年の研究では「胃がん」や「狭心症」説が有力視されています。歴史の裏に隠された病魔と葛藤のドラマ、皆さんはどちらの説を支持しますか?ぜひご意見を聞かせてください。





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