「家康こそ九度山へ追放するはずだった」真田昌幸の“執念”は本物だったのか?

  • 2026/10/26
:歴史学者
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 関ヶ原の戦いで西軍に味方した真田昌幸と次男・信繁(幸村)は、死罪を免れたものの、高野山へ追放され、のちに九度山で蟄居生活を送った。徳川軍を2度も苦しめた昌幸だけに、九度山でも「打倒家康」の執念を燃やし続けたという逸話は多い。

 なかでも有名なのが、「家康こそ九度山へ追放してやろうと思っていた」という昌幸の言葉である。しかし、本当に昌幸はそのような言葉を残したのだろうか。九度山での生活をたどると、後世に作られた勇ましい真田伝説とは異なる、失意と困窮のなかで暮らす父子の姿が浮かび上がってくる。

昌幸の九度山下向

 慶長5年(1600)12月13日、昌幸・信繁父子は上田を発ち、配流先の高野山へ向かった(『当代記』)。その後、高野山麓の九度山で蟄居生活を送ることになる。昌幸には、池田長門守ら16名の配下の者が従ったという(「真田家文書」)。では、昌幸はどのような気持ちで九度山へ向かったのだろうか。

 『真田御武功記』によると、出立に際して昌幸・信繁父子は、長男・信之と対面したという。そのとき昌幸は恐ろしい目つきをしながら、はらはらと涙を流し、「何と口惜しいことであろう。家康こそ、このように九度山へ追放してやろうと思っていたのに」という趣旨の言葉を述べたとされる。

 昌幸の無念がにじみ出た有名な逸話である。しかし、これをそのまま史実と考えることはできない。実際に昌幸がこのような発言をしたのかは不明であり、後世に昌幸の不屈の精神や家康への怨念を印象づけるために作られた可能性を考える必要がある。

 とはいえ、領地をすべて失い、先の見えない蟄居生活を命じられた昌幸が、強い無念を抱いていたことは想像に難くない。少なくとも九度山へ移った当初は、いつの日か再起したいという気持ちを持っていたとしても不思議ではない。

 信繁についても、同じような逸話が残されている。『常山紀談』には、紀伊国高野山の麓にある九度山に籠居した信繁が、常に兵法を論じ、天下の情勢に思いをめぐらせていたと記されている。

 しかし、『常山紀談』は江戸時代中期に成立した逸話集であり、同時代史料ではない。その内容を、そのまま信繁の実像として受け取ることには慎重でなければならない。

 昌幸・信繁父子が九度山でも天下の情勢を見つめ、いつの日か家康を倒そうと軍略を練り続けていたという物語は、実に魅力的である。しかし、後世の逸話を取り除いて史料を見れば、2人が長期間にわたって「打倒家康」だけを考えていたとは言い切れない。

 むしろ時間が経過すると、再起よりも九度山での生活をどう維持するかという、切実な問題が父子を苦しめることになるのである。

九度山とはどのような場所だったのか

 昌幸と信繁が蟄居生活を送った九度山とは、どのような場所だったのだろうか。現在の九度山町は和歌山県北部に位置し、古くから高野山と深い関係を持つ地域だった。

 九度山という地名については、有名な伝承がある。真言宗の開祖・空海の母が慈尊院に住んでいたため、空海が母に会うため月に9度も高野山から下ってきた。それが「九度山」の地名の由来になったというのである。

 当時の高野山は女人禁制だったため、女性は山内に入ることができなかった。そのため、慈尊院は「女人高野」とも呼ばれ、多くの女性の信仰を集めた。また、戦国時代から織豊期にかけて、高野山は政治的に失脚した武将が追放、蟄居を命じられる場所としてもしばしば登場する。

慈尊院(『紀伊國名所圖會』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
慈尊院(『紀伊國名所圖會』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 天正8年(1580)8月、織田信長は重臣の佐久間信盛と、その子・信栄を追放した。信盛は大坂本願寺との戦いを担当していたが、十分な働きをしなかったとして、信長から厳しく責任を追及されたのである。信長が信盛に突きつけた折檻状は、一般に19ヵ条に及ぶとされる。

 そこでは大坂本願寺との戦いだけでなく、過去の行動にまでさかのぼって信盛の責任が追及されている。信盛・信栄父子は高野山へ向かい、出家した。その後、信盛は紀伊国で亡くなったとされるが、没年については史料によって異同がある。信栄はのちに赦免され、再び武家社会に復帰した。

 天正18年(1590)の小田原攻め後には、北条氏直も高野山へ送られた。氏直は自らの命と引き換えに城兵の助命を願ったとされるが、最終的には父・氏政、叔父・氏照らが切腹し、氏直は高野山で謹慎することになった。

 氏直は徳川家康の娘・督姫の夫でもあった。翌天正19年(1591)には豊臣秀吉から赦免され、1万石を与えられて大名として復帰する。しかし、同年11月4日、疱瘡を患い、30歳で亡くなった。

 さらに文禄4年(1595)には、秀吉の甥で関白だった豊臣秀次が高野山へ送られた。秀次については謀反の疑いが取り沙汰されたが、その実態については慎重に考える必要がある。秀次は関白の地位を失い、高野山へ入り、まもなく切腹した。さらに妻妾や子女も京都の三条河原で処刑され、多くの関係者が処罰された。

 このように高野山は、権力者から政治的に排除された人物の追放・蟄居先として利用されることがあった。高野山へ送られたからといって、いずれ赦免される保証はない。氏直のように復帰する者がいる一方、秀次のように命を失う者もいた。

 昌幸と信繁にとっても、九度山での生活がいつまで続くのか、将来赦免されるのかは、まったくわからなかったのである。

真田庵とは何か

 昌幸ゆかりの場所として、現在もっともよく知られているのが善名称院、通称「真田庵」である。ただし、昌幸が生きていた当時から現在の真田庵という寺院が存在していたわけではない。

善名称院の図(『真田の古跡 : 高野聖九度山 2版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
善名称院の図(『真田の古跡 : 高野聖九度山 2版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 『紀伊続風土記』などによると、昌幸の屋敷跡と伝わる場所に、寛保元年(1741)、大安上人が寺を開いたのが善名称院の始まりとされる。つまり、昌幸の死から130年ほど後のことである。

 そのため、「昌幸と信繁が真田庵に住んでいた」という説明は、厳密には正しくない。現在の真田庵が建つ一帯が、昌幸の屋敷跡と伝えられているのである。また、昌幸と信繁は同じ建物で生活していたわけではなかったようだ。

 「先公実録」によると、信繁が住んだ場所は「堂海東」、昌幸が住んだ場所は「道場海東」と呼ばれていた。「海東」は「垣内」を意味すると考えられ、垣などで区切られた一画を指していたのであろう。慶長15年(1610)頃と考えられる11月11日付の昌幸書状には、住居を借りていたことをうかがわせる記述もある(「小山田文書」)。

 九度山周辺には、ほかにも真田氏にまつわるさまざまな伝承が残された。『紀伊続風土記』には、紀ノ川沿いに「真田淵」と呼ばれる場所があり、昌幸・信繁父子がそこで遊んだと伝えられている。また、丹生川沿いの岩場には「真田の抜け穴」があったとも記されている。もちろん、「抜け穴」などを史実と断定することはできない。

 一方、「先公実録」にも真田淵について記されている。昌幸・信繁父子が九度山周辺を散策することはあったのであろう。そうした父子の記憶が、やがてさまざまな「真田伝説」へ発展していったと考えられる。

昌幸は本当に「真田紐」を作ったのか

 九度山時代の昌幸について、もっとも有名な話の1つが「真田紐」である。昌幸は九度山で真田紐を作り、それを売って生活費を稼いだ――。現在でも広く知られている逸話だが、これも史実として確認できるのだろうか。まず、昌幸の九度山での生活を見てみよう。

 「先公実録」によると、昌幸は正室・山之手殿を伴わず、伊勢国出身とされる女性と暮らしていたという。ただし、この女性について詳しいことはわからない。なぜ正室が昌幸に同行しなかったのかについても、確実な理由は不明である。したがって、「九度山での厳しい生活を心配したから」などと断定することはできない。

 真田紐に関して興味深い逸話を伝えるのが、『名将言行録』である。それによると、九度山の昌幸は木綿の打糸を大小の刀の柄に巻いていた。その姿を見た人々は、あまりにも粗末なので嘲笑したという。

 すると昌幸は、たとえ錦の服を着ていても、心が愚かで強情なら意味はないという趣旨のことを述べ、刀を抜いてみせた。その刀は、名刀として知られる「相州正宗」だったという。

 外見は粗末であっても、中身は一流である。人々は昌幸の心意気に感服し、この木綿の打糸を「真田打」と呼ぶようになったというのである。実に昌幸らしい痛快な逸話だが、史実としては慎重に扱わなければならない。

 『名将言行録』は館林藩士・岡谷繁実が編纂し、明治2年(1869)に刊行された書物である。戦国武将などの興味深い逸話を数多く収録しているが、昌幸の時代から約270年も後に成立したものである。したがって、この逸話だけを根拠に昌幸が真田紐を作ったと断定することはできない。

 「真田打」とは、一般に「真田紐」と呼ばれる丈夫な平紐を指す。箱物の紐や掛軸の吊紐など、さまざまな用途に使われてきた。江戸時代後期の『安斎随筆』には、真田紐の名称が昌幸に由来するという説が記されている。しかし、『国史大辞典』でも、昌幸が刀の柄に巻いたことから「真田紐」と呼ばれるようになったという話は「俗説」とされている。

 まして、昌幸・信繁父子が九度山で真田紐を製造・販売し、それによって生活していたとする話を裏付ける確実な同時代史料は見当たらない。

 九度山に追放されても昌幸は誇りを失わず、刀を手放すことなく、家康への闘志を燃やし続けた――。真田紐の逸話は、そうした「不屈の名将・真田昌幸」のイメージに実によく合っている。だからこそ、後世に広く語り継がれたのであろう。しかし、実際の九度山生活は、それほど勇ましいものではなかった。

 昌幸・信繁父子は長い蟄居生活のなかで経済的に苦しみ、周囲からの援助を必要とした。時間が経つにつれ、昌幸にとって重要だったのは「打倒家康」の軍略を練ることよりも、先の見えない九度山生活をどう乗り切るかという現実的な問題だったと考えられる。

「家康こそ九度山へ追放するはずだった」という勇ましい昌幸像と、九度山で困窮していく現実の昌幸。その落差こそ、関ヶ原の敗者となった真田父子の実像を考えるうえで重要なのである。

 なお、「真田虫」や「麦稈真田(麦わら帽子)」などの名称も、一般には細長い「真田紐」の形状などに由来して「真田」の名が付けられたと説明されている。

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  この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...